2008/4/11 日比谷の劇場を取り仕切る 若き女性支配人の情熱物語。

013t_08041101.jpg

東京宝塚劇場、日生劇場、帝国劇場、そして東京国際フォーラム。さまざまな劇場、ホールが軒を連ねる日比谷、有楽町地区。2007年の11月、その一角に、新しい劇場が誕生しました。
名前は「シアター・クリエ」。
名門・東宝が、50年近くの歴史を誇った「芸術座」をクローズ、そのあとに作ったのが、このシアターです。

「シアター・クリエ」オープンに際して 支配人に抜擢されたのは、当時29歳の女性、山﨑奈保子さん。東宝では初めての20代の女性支配人でした。

最初は、新しい劇場ができるということで、開場準備スタッフだったんですね。でも、開場準備スタッフと言っても、上司もいなければ、同僚も後輩もいない。ひとりでいきなり配属されたんです。 「周りの人にいろいろ聞きながらやってね」みたいな。 そう言われても何からやればいいのかわからない。そんな状態で始まったんです。

2006年の春、山﨑奈保子さんにおりた辞令は 「新劇場の開場準備スタッフ」。 しかし、それが2ヶ月後には「開場準備責任者」に。 さらにその2ヶ月後、夏になるころには、「新劇場支配人」へと 肩書きが変わります。

翌年の11月に控えたオープンを目指して 若き支配人の挑戦が始まったのです。

何をどうしていいか、先のことは不安だらけだったんですがまずやらなければいけないのは、設計の問題だったんですね。 私が配属を受けたときに粗方の設計は決まっていたんですが、ここだけは変えないといけないという部分をあらいだして。ただ、スペースが限られていまして、前の芸術座より3メートル×3メートル狭くしなければいけなかったんですね。非常にロスが大きい部分で、そこが。

山﨑さんは理想の劇場を作るため、仕事を加速させていきます。寝ても覚めても、シアター・クリエのことを考える日々が始まりました。
29歳で 日比谷の「シアター・クリエ」 支配人に抜擢された 山﨑奈保子さん。
その情熱の原点は、今、「シアター・クリエ」があるのと同じ、日比谷にありました。

013t_08041102.jpg 1991年。東京宝塚劇場。
当時13歳の山﨑さんは、お姉さんと一緒に 宝塚のショーを見に 来たのです。
演目は、星組公演、「メイフラワー」。
この日このときこそが、彼女が舞台の世界へと進もうと思った瞬間でした。

大学を卒業後、東宝に入社。
経理の仕事を2年半、
そしてその後、劇場の現場、「芸術座」の営業係をつとめることになります。

演劇を外から見ていたときは、大きい会社が興行をすれば、 お客さんも入るんだろう、という漠然とした考えしかなかったんですが その甘い考えが芸術座にいたときになくなりました。 やはり、お客さんが入らないものは入らないし、 そういうものを作ってはいけないんだ、ということを学びましたね。

芸術座はビルの老朽化のため、その歴史に幕を下ろします。 山﨑さんもそれに伴い、舞台のラインナップなどを決める企画部へ。
そして迎えた2006年の桜の季節、
いよいよ新劇場の準備スタッフとなったのです。
やがて異例の人事で、支配人に抜擢。
オープンの日へのカウントダウンが始まるなか、 設計上の問題をクリアすること、スタッフ集め、チケットの販売システム・・・ 重い責任を肩に、作業が続きました。

最初、トイレの場所も今とは違いました。 女性用のお化粧室の混雑が、劇場に勤務していたとき、一番ストレスを 感じる部分でしたので、とにかく、女性トイレを一番広いところに移して    導線の混雑がない場所にしたというところがありますね。 あと、お化粧室の話に集中してしまいますが、荷物を置く場所が なかったので、荷物を置く場所、傘をかける場所を作ったり、 お化粧するぎりぎりの人は手を洗う人と別の場所になるようにするとか、 とにかくトイレの話をすごくした記憶がありますね。

2007年、11月7日。
「シアター・クリエ」のこけら落としは 三谷幸喜さん 作・演出の「恐れを知らぬ川上音二郎一座」。
若き支配人のもとで、新しい劇場が幕をあけました。

山﨑奈保子さん、30歳。
彼女が作りたいのは、「とにかくお客さんに親切な劇場」。

それはおそらく、劇場運営に携わるなかで学んだこと、 そして、中学生のときに彼女が訪れた あの日のステージが 教えてくれたことなのかもしれません。

日比谷「シアター・クリエ」、 今日も、客席から舞台を見つめる観客の顔が 幸せな色に染まります。