今週日曜日、土佐礼子をはじめとする北京オリンピックのマラソン日本代表選手たちが、オリンピックのコースを使ったテスト大会に参加しました。 そして、この大会にあわせて、関西国際空港から ひとりの男が北京へと飛びました。 その人の名前は、三村仁司さん。 所属は、株式会社アシックス スポーツ工学研究所。高橋尚子のシドニー・オリンピック 金メダル、野口みずきのアテネ・オリンピック 金メダル、、、実は、高橋さんも野口さんも三村さんが作ったシューズを履いてレースに臨んだのです。
走りやすい靴、疲れにくい靴を作る。 最終的には故障につながるので、故障しない靴。 試合は練習さえ満足いく練習ができれば、いい結果が出ると思います。 だから、できるだけ疲労を残さない、故障しない、選手にあった靴を作ることが使命だと思っていますけどね。
兵庫県神戸市にある アシックスのスポーツ工学研究所。 神戸の中心地から およそ30分、 さまざまな企業の研究所が立ち並ぶハイテクタウンにある その施設を、少ない日でも一日に10人、多きときは、20人ものアスリートが訪れます。目的は、「三村さんに足を見てもらうため」。
足の裏をコンピュータではかったり、3Dといってこれもコンピュータですね。足の形をはかったり、台の上に紙を置いてはかったり、4つくらい測定しますね。そこまですれば、どういうフォームで走っているとか、例えば、右の太ももがはるのであれば、左を強くするとか。あなたはこういうクッション性のある靴がいいとか、言ってあげますけどね。
さながら、腕利きの名医のもとを訪れるように、日本全国から、あるときは海外からもトップ・アスリートが三村仁司さんの元へとやってきます。もちろんその実績をかって 相談にくる選手もいるでしょうが、何か別の理由があるような気がして・・・さらに取材を進めました。 トップ・アスリートのシューズを手がける三村仁司さん。昭和42年に 当時の「オニツカ」に入社。靴作りの現場で4年、研究の部署で3年を過ごしたのち、突然、辞令が下ります。「一流選手の靴を作れ」。君原健二さん、宇佐見彰朗さんから始まってこれまでに経験したオリンピックは7大会。どれもが思い出深いと語る三村さんですが、ひとつだけ忘れられない苦いオリンピックがありました。
1988年のソウル・オリンピック。100グラムほどの非常に軽い靴を作った。 理論上はいい結果が出るはずだったが、選手たちはリズムを崩した。選手との対話の大切さを学びました。
「でも、素晴らしい結果の出たオリンピックもたくさんありますよね?」この質問に対して、三村さんが最初に挙げたのは高橋尚子の金でも、野口みずきの金でもなく、 1992年のバルセロナ・オリンピックでの出来事でした。
バルセロナ・オリンピックで、4日前に、 有森裕子が「足が痛くて走れない」と僕らのブースに来ました。できるだけ靴で、痛くならないようにと思いました。暑い中、パンツ1枚で作業しました。底をはがしたり、ソールを変えたり。だけど、僕はもうダメだと思いましたけどね。多分5キロか10キロで棄権するだろうと。それで僕は別の競技をスタジアムで見ていたんですね。で、場内のビジョンに 20キロの時点で、有森が競り合ってるじゃないですか。顔くしゃくしゃにして頑張ってるのを見たら、涙が出ました。
当時、誰もが知らなかった有森裕子の足の痛みを何とかしてやりたいと思った 技術者の願い。そして、その靴にすべてを預けて走ったランナーの想い。バルセロナの夏、いくつもの情熱が勝ち取った 銀メダルでした。
いつも責任を感じています。 そして、気持ちの入ったものづくりをしなければいけない。びっくりしたことも感動したことも悩んだこともあったけどネバーギブアップ。心を込めてものを作っていきたいですね。
シューズを作る作業場のすぐとなりの部屋にあるデスクで、三村仁司さんは、パソコンの画面をのぞいていました。それは、ある選手のblog。「三村さんの靴のおかげでいい練習ができている」その一行に、職人は目を細めました。
はたして、北京オリンピックではどんなドラマが待っているのでしょうか?野口みずき選手、土佐礼子選手、中村友梨香選手・・・女子の代表は全員、三村さんのシューズを履いて大会にのぞみます。