2008/5/2「国立競技場」の芝を育てる男の情熱物語

今週は・・・東京オリンピックからトヨタカップまでさまざまなスポーツの舞台となっています、「国立競技場」の芝を育てる男の情熱物語。

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1993年5月15日。国立競技場の渡辺茂さんは、メイン・スタンドからピッチを見下ろしていました。この日、国立競技場で行われたのはJリーグの開幕戦。今や伝説の、ヴェルディ川崎対横浜マリノス。日本でのプロ・サッカーリーグが始まる瞬間でした。

オープニングセレモニーが終わって、試合が始まって試合が始まる直前に照明灯に灯が入ったんです。ボールが動き始めたときに、照明がピッチを照らしてボーッと芝が浮き上がってきて、感慨深かったです。それは今でも覚えてますね。

このとき、渡辺さんは、グラウンド・キーパーをつとめて15年。芝を緑に保つため、努力を重ねた年月が脳裏をよぎったにちがいありません。 そもそも、国立霞ヶ丘競技場、通称 国立競技場ができたのは、昭和33年、1958年のことでした。当時、「ノシバ」と呼ばれる芝がピッチに敷かれましたが、1964年の「東京オリンピック」を前に、「ヒメコウライシバ」に、さらに、その5年後、「ティフトンシバ」という品種へと変ります。 そして、最も大きく 国立のピッチが進化するのは、1990年。

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ウインター・オーバーシードという方法が採用され、ティフトンシバというのをベースにしたところに、ペレニアルライグラスというのをまいて、秋から冬にかけても芝を緑に保つという方法が始まったんですね。

一見、夏も冬も 同じように見える 国立競技場の芝ですが、実は、季節によって表面を覆う芝は 種類が違います。そして、このことが グラウンド・キーパーに 繊細な感覚を要求したのです。春になっても冬の芝がうまく衰退しなければ、夏の芝は出てくることができない。逆に冬には 夏の芝は 勢いを弱めなければいけない。開催される試合の日程をにらみながら、いつ芝を刈り込むのか?今日は晴れるのか、雨なのか?気温はどう変化していくのか?オープンエアーで 自然とともに生きるスタジアムならではの微妙な作業が 日々行われているのです。 東京オリンピック、世界陸上、サッカーのワールドカップ予選、Jリーグ開幕戦、そして トヨタカップ。いくつもの名勝負の舞台となった国立競技場。芝の管理を統括する 渡辺茂さんは、今年の8月でキャリア30年。プロ中のプロと言える存在ですが、今振り返っても冷や汗が出る、という失敗もありました。

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ワールドユースで、マラドーナがおそらく日本に初めて来たんですが、そのとき、グランドに草が多くて、、、知識が浅いなかで除草剤を使ったらどうかと提案しました。しかし、量を誤って、必要な草までからしてしまった。国立でワールドユースが行われた際に、草のあるところとないところとまだらになってしまった。今だったら大変なこととなるですが、当時は「あまりよくないね」という位で済んでしまったんですが、、、

1979年、ディエゴ・マラドーナがやってきた「ワールドユース」。仕事を始めてまだ1年程度。新人の提案は裏目に出てしまいました。しかし、この痛恨の記憶をバネに、渡辺さんは 選手たちの舞台を仕上げることにより深く情熱を傾けます。移り変る気温と、気まぐれな天気と、ピッチを吹き抜ける風。自然と会話する毎日が続きました。

第8回のトヨタカップですか、、、FCポルトとペニャロール試合始まるまでは、みぞれのような雪だったんですが、始まるころには本格的に雪が降り出して僕はラインをより見えるようにとラインのあたりを除雪していたんですが結局、ラインのあたりにフラッグを立てました。選手は大変だったでしょうね。トヨタカップであれだけ雪がふったのはあの試合だけですね。

東京は、雪が降ることもあります。大雨が降ることも、梅雨が長引くことも、あるいは、酷暑に見舞われることもあります。しかし、いつも「緑の芝」の上で選手に試合をさせてあげたい。それが、グラウンド・キーパーの願いです。

一生懸命やっても時にはダメなときもあるし、思ったより一生懸命できなくても良くなるときもある。運っていうんですかね。だからと言ってそれに任せるのではなく、できるかぎりのことはやらないと。そうでないと、ダメだったときになぜダメだったのか分かりませんからら。

園芸科の学校を出てから30年。芝を愛する男、渡辺茂さんは今日も出勤したらまずグラウンドへと向かいます。