今週は・・・日本に宅配ピザをもたらしたドミノ・ピザのHIDDEN STORY。
1985年の9月、東京、恵比寿に一軒のお店が開店しました。日本で初めての「宅配ピザ」のお店、ドミノピザの1号店がオープンしたのです。 BG Johnson city rag 創業者は 現在も社長をつとめるアーネスト比嘉さん。物語の始まりは、ハワイ生まれ、日系3世の比嘉さんが ふと目にとめた新聞記事でした。記事の主人公は、Mr.トーマス・モナハン。トーマス・モナハンという人が、彼はドミノピザのオーナーでしたが彼がデトロイト・タイガースという大リーグのチームを買収したんですね。100億円での買収で大きなニュースだったんですが、そのとき驚いたのは、宅配ピザがそんなにビッグビジネスだと思わないから。だから、興味を持ったということなんですね。
宅配ピザで財をなした人、すなわちトーマス・モナハンさんがメジャー・リーグの球団を買収した、というニュース。記事を見たアーネスト比嘉さんは即座に「この人は面白い。ぜひ会いたい」そう思います。すばやくデトロイトへ飛び、モナハン氏との対面を果たしました。しかし、比嘉さんが持ちかけた「日本でのビジネス」に対して、当初、モナハン氏の首は タテには動きませんでした。
一部は海外に進出していたのですが、はっきりはうまくいってなかったんですね。 カナダ、オーストラリアもUKも香港も。どこも成功していなかった。 それで「日本はどうですか」と言ってみたら「インターナショナルでは成功していないんで」ということだったんですが、私は、「やらしてもらえば成功できる」と話して。
1984年の秋。交渉のテーブルについていたふたりに女神が微笑みます。それは、ベースボールの 勝利の女神。 ちょうどそのときワールドシリーズに出場していたデトロイト・タイガースがワールド・チャンピオンに輝いたのです。その幸運を追い風に、交渉は一気に加速。ドミノ・ピザの日本進出が決定したのです。しかし、挑戦は、ここからが本番でした。 ドミノ・ピザの日本初上陸は1985年。 日本でのドミノ・ピザを立ち上げたアーネスト比嘉さんはこう考えていました。 「アメリカで成功したモデルをそのまま実行したい。でも、いくつかの部分は変更しなければいけない。」
例えば、日本人好みのトッピングですね。イカとかエビとか。アメリカの場合は、トッピングは変更できないというルールがありましたが日本では変えなければうまくいかない。 もうひとつは・・・当時いくつかのピザチェーンが日本に来ていたんですがどれもうまくいかない。その理由は、チーズにあったんです。当時日本ではナチュラルチーズの消費量が少なかった。ナチュラルチーズが嫌いだったら、ピザも好きじゃない、ということなので日本人好みのマイルドなナチュラルチーズに変えたりね。
そのころの日本は、イタリアン・ブームの到来前夜。ピザは決してメジャーな食べ物ではありませんでした。そこで、日本人好みのトッピングに マイルドなナチュラルチーズ...味の面での調整がおこなわれたのです。 そして次なる課題は、ドミノ・ピザがアメリカでウケた大きな理由となった【あのルール】、
当時では、東京の場合は、道も混んでいるし、住所も入り組んでいるから30分以内で配達するのは難しいと考えられていました。 でも、これは重要なコンセプトなので なんとか実現したいと。地図、、、ウォールマップと呼んでますけど、住宅地図を拡大しまして、ゾーニングして、、、アメリカにはこういうものはないですけど、どうすれば速く配達できるか、考えたんですね。ドライバーの教育期間も長くしたり、それでなんとか30分以内を実現できたんです。
実は、今でも、創業当時に作成されたものをベースにしたマップがドミノ・ピザの店舗の中には 大きく貼り出されています。誰にでも分かりやすく 詳細な地図を作ることで、東京でも30分以内のデリバリーを実現させたのです。今や 全国に200店以上を構えるピザ・チェーンのトップ、アーネスト比嘉さん。彼には、会社を運営していくにあたって 何より大事にしていることがあります。それは、「人」。
あのときは、ディスコがブームでしたけど、一番流行っているディスコを貸し切って、ヴェルファーレとかそういうところを貸し切って、イベントをやりました。ひとつは定着、もうひとつは友達もつれてきてもらって「この会社面白いな」と思ってもらうこと。やはり人がいないと何もできない。
アーネスト比嘉さんが 新聞記事を見て 面白いと感じた人に会いにいったところから始まった「ドミノ・ピザ」。 常に重きを置いているのは、ワクワクしながら仕事をしてくれる人材を集めること、いい人材が集まれば、困難も乗り越えられる。笑顔の向こうにはそんな自信がのぞいていました。