今週は・・・フジロックフェスティバルを作った男の情熱物語。 今や日本の夏の風物詩とも言える存在となった「フジロック・フェスティバル」。その着想が、男の頭に宿ったのは、1980年代のことでした。
イギリスのグラストンバレーというところで、毎年6月の終わりにグラストンバレー・フェスティバルというのがあるんだけど、いろんなステージがある、ステージだけじゃなく、いろんなお祭りが一緒にある、非常に楽しいのね。これをやれればいいなと。計画とも言えないよね。やれればいいな、でも無理かな、、、という。
それから10年以上の時を経て、株式会社スマッシュの代表、日高正博さんは ついに動きます。「自然の中で音楽フェスティバルを開催したい、、、」日高さんは、日本列島を東へ西へ、、、会場の候補地を探しました。福島県の磐梯山、岐阜の御岳山、そして のちに会場となる新潟県の苗場。 さまざまな候補のなかから記念すべき第一回フジロック・フェスティバルの開催地が決まります。富士山のふもとにある天神山スキー場。
大変だったのは、スタッフだよね。山の中にステージを作って。自然の中で雨は降るし。そして、3万人のお客さんをどう運営するか。それは、繊細な作業だし。アーティストのブッキングは大変じゃなかった。根回しはもう3年くらい前からやっていたから、、、。声をかけたら、すごい勢いで俺たちも出たい、俺たちも出たいと。あえて、ブッキングで苦労したと言えば、俺の精神状態だよね。東京からはなれた山の中だし。ほんとに、お客さんがチケットを買ってきてくれるのかな、という心配はあったよね。
1997年7月26日。悪天候が予想されるのにもかかわらず、観客はしっかりと集まっていました。今や伝説ともなっている 嵐の中のフジロック・フェスティバルが始まったのです。
日本ではほとんど知られていないバンド、、、3人組のロックンロールバンドがいるんだけど。Southern Cultures Onというバンド、これを最初に持っていこうと。全然知らないけれど、お客さんは絶対喜ぶからと。早く始まらないかなという期待感。聞いたことのない音楽だけど、お客さんの思いがバーンと伝わってきてね。。。美しい光景だったね。
1997年の夏、、、フジロック・フェスティバルのステージに最初にあがったのは日本ではまったく無名のバンド、Southern Culture On The Skids。しかし、スマッシュの日高正博さんの読み通り、お客さんのテンションはいきなりピークに達しました。
特に1年目は、嵐の中、お客さんも立ってるわけだよね。そうすると、中途半端な気持ちじゃないよね。ステージから音を送る。するとリアクション、、、お客さんから返ってくるのよね。波みたいに。アーティストは倍にして返す。どんどん緊張感が高まっていいステージだったよね。
この年、フジロックは悪天候により2日目が中止となります。 でも、さまざまな音楽を同時に楽しむフェスティバルは日本でも受け入れられる。そんな手応えが日高さんの胸には残りました。翌年は、東京で開催。そして、迎えた1999年、いよいよ舞台は、新潟県の苗場スキー場へと移ります。
一番いいのは、自然。日本の地形をいかした自然だよね。グラストンバレーは牧草地だから何にもない。林もないし、川もないし。苗場がいい特徴は、大きい会場が作れるフィールドがあって。プラス 川もあって、森もある。それがたてに流れている。要するに3万人が3日間、暮らす街だからね、、、ずっといるわけだから。
日本の自然と音楽を溶け合わせる これまでにないフェスを作りたい。そんな想いがステージづくりに結実していきます。苗場スキー場のふもとに設置されるメインステージ「グリーンステージ」から、森を抜け、山をのぼり、いくつものステージが点在する、まさに 自然の中の音楽フェスティバル。世界各地の食が楽しめるスペースはもちろん、NGOヴィレッジなる場所も存在します。
また、今では当たり前となったゴミの分別もいち早くおこなわれ、観客の環境への意識、社会的な意識を高めることにも貢献しています。
毎年およそ12万人が訪れるフジロック・フェスティバル。最初は、「そんなもの、できっこない」と思った日高正博さん。でも、それを実現した裏にあったのは、やはり熱き想いだったのです。
人間が月に行けたのは、技術じゃないと思う。何千年も月を見て、あそこに行きたいという。その想いがあったから、技術も発展したんだと思うし。こういうことをやってみたい、夢みたいな計画に技術が追いつくというか。別にフジロックのことを月といっしょにしてるわけじゃないけど、そんなことを時々考えたりするんだよね。
今年も、多くの人が楽しみにする夏の一大イベント、フジロック・フェスティバルがやってきます。