今週は・・・今年が発売25周年、世界中で大人気となっている腕時計「G―ショック」の開発秘話。
1983年に発売されて以来、世界での累計販売個数、4500万個以上。映画「スピード」ではキアヌ・リーブスが、「ミッション・インポシブル」ではトム・クルーズがつけるなどハリウッド・ムーヴィーでもその存在感が認められている腕時計「Gショック」。その誕生の扉をひらいたのは、ひとりの技術者が提出したたった1行の企画メモでした。
あるときの新技術新商品提案書に、「落としても壊れない丈夫な時計」という1行だけ、、、小学校の低学年の子のような文章で1行だけ書いたんですね。本来ならそこにきちっとした構造案とか実験スケジュールを書いて提案するんですけど、頭の中に、「メタルケースにゴムが少しついていればオッケーになるだろう」と思っていましたので、その1行だけで提案しました。
カシオ計算機株式会社の伊部菊雄さんが書いた「落としても壊れない丈夫な時計」。大ヒット商品を生むこととなる この1行が提案されたのは1981年。
高校入学時に、父から腕時計をプレゼントされまして、それを高校大学、社会人になってからも使っていたんですね。それをして会社の廊下を歩いているときに、反対側から来た人と私の腕があたって、時計が落ちたんです。落ちた瞬間に時計がばらばらに壊れたんです。時計って落とすと壊れるんだとそのときショックというよりは感動として残ったんです。
すれ違いざまに腕がぶつかって 時計を落として壊してしまった。この偶然をきっかけに、企画を立案。そして「落としても壊れない丈夫な時計」、のちに「Gショック」と呼ばれる時計の開発がスタートしたのです。
東京都羽村市にあるカシオの羽村技術センター。「Gショック」の開発は この施設でおこなわれました。
腕からするりと落ちたところから始まっているので、自由落下にこだわったんです。試験機を使わず、自然に落下させることで実験をしようと。その当時は普段、薄型化の開発をしていました。で、その商品は時代に逆行するだろうと思っていたんですね。だから目立たないところで実験をしたいなと思いました。目立たないところと自由落下ということで、トイレの窓、というところに事が進んでいったんです。
羽村技術センターで、伊部菊雄さんの研究室があった3階のトイレ。その窓から 試作品を落下させて壊れないか調べる。そんな形で開発はスタートしました。最初の発想どおり、伊部さんは 時計にゴムを貼ったものを落としました。しかし、もくろみははずれ、、、結局、ソフトボールくらいの大きさになるまでゴムをぐるぐる巻かなければ時計は壊れてしまいます。まったく新しい構造が必要とされたのです。
時計の心臓部、時間を表示しているところまで、5段階で衝撃を吸収する構造を考えたんですね。ウレタンが1段階、中のメタルケースが1段階、という風に5段階のシステムを考えました。これで劇的に小さくできたんです。Gショックの原型サイズまで小さくなったんです。
一気に近づいたかに見えたゴール。しかし、難問が立ちはだかりました。どうしても中の電子部品がひとつ 壊れてしまう。それを補強すれば 他の部品が壊れる。開発は一歩も進まなくなりました。来る日も来る日も考えて、でも どうしてもうまく行かない。伊部さんはこう決めました。「この1週間で解決策が出なければあきらめよう」。 そして迎えた7日目のこと、、、
これは自分で決めたことだからあきらめなきゃいけないだろうと思って片付けをしようと休日に出社したんです。で、お昼を外に食べに行きましてそのあと会社に帰るときに、、、すぐには戻りたくなかったものですから公園がありまして、そのベンチに座ってボーッとしていたんですね。たまたま、その前で 子供がたまつき、ボール付きをやってまして、それを見てたら突然、そのボールの中に時計が浮いているように見えたんですね。
ここで伊部さんはひらめいたのです。時計の心臓部がボールの中に浮いているような構造を作れば、外から衝撃を受けても壊れない。5段階で衝撃を吸収したあと、最後は 「点」で中心部分を支える構造で実験を再開。 そのあとは一気に完成へと向かったのです。ちなみに、、、この最終段階にいたるまで、実験に使われたのは羽村技術センター3階のトイレの窓でした。
実験で一回もエレベーターを使ってないんですね。なんでかというと、落としたときに期待値があるんですね。ほとんどは壊れているんですけど、それをエレベーターでふっと上がってくるよりは、なぜダメだったのかなと考える時間が欲しかったんですね。だから足腰はずいぶん強くなった気がしますね。
階段をのぼりながら ひとり考える。Gショックを完成に導いたのは、そんな静かな「時間」だったのかもしれません。