今週は、マイケル・ジャクソンのアルバム 『スリラー』のHidden Story。
空前のヒットを記録したそのアルバムは、どのように世に出たのか?
当時の状況を詳しく知る関係者の証言でつづる、スリラー秘話。
お話を伺ったのは、当時、日本のレコード会社で洋楽宣伝のチーフを務めていた秦幸雄さんです。
まずは、『スリラー』前夜。
マイケル・ジャクソンは、プロデューサー、クインシー・ジョーンズとともに『Off The Wall』というアルバムを作りあげました。
ちょっと前までさらにさかのぼると、ジャクソンズがモータウンからエピックに移籍して来た『Destiny』というアルバムあたりから、ディスコではかかるようになっていたんですね。そのときのディスコの状況というのは、ビージーズのナイトフィーヴァーとアースウィンド&ファイアの宇宙のファンタジーで大ブームがあった、その次の段階だったんですね。
そんなかで、ジャクソンズが受け始めていたんですね。 『Off The Wall』が出たと。
そういう形でロングセラーになっていたんですよ。
日本で、ディスコを中心に『Off The Wall』がロングセラーとなっていたその頃。
1982年4月14日、アメリカ、ロサンゼルスでは1枚のアルバムの制作がスタートしました。
それが 伝説のアルバム『スリラー』の始まりです。
最初にレコーディングされたのは、先行シングルとなる、ポール・マッカートニーとのデュエット「The Girl Is Mine」
最初にシングルの音がきたんですけど、シングルで大肩すかしをくうわけですよ。 ディスコの連中が手ぐすねひいて待っていたのに、「Girl Is Mine」ですよね。 いわゆるポップでとても踊れる曲じゃないという。 全くディスコではかからない、がっくりという。 そこからスリラーの物語が始まるんですけど。大きなセールスを期待すると、出足がすごく大事なんですけど、出足はすごく悪くて、期待はずれ。
当然そのときは、「Girl Is Mine」という曲があっただけですから、他に何の宣伝ツールもないので。 それをラジオでかけると。そういう状況で『スリラー』というアルバムがお店に並んだということです。
マイケル・ジャクソンとクインシー・ジョーンズは、締め切りのギリギリまでアルバム作りに没頭しました。
収録候補曲は600曲にも及んだと言われていて、結局、実現しませんでしたが、クイーンのフレディ・マーキュリーとの共演も画策されていました。
そんな慌ただしい状況にもかかわらず、当時としては異例の世界同時発売が決まっていたのです。
日本へのアルバム音源の到着は、当然、遅れに遅れました。
発売前にあったアルバムの宣伝材料は、シングル「The Girl Is Mine」のみ。
ディスコ中心にウケていたマイケルを宣伝するには、弱い曲だったのです。
1982年12月1日、アルバム『スリラー』発売。
当時の宣伝チーフ、秦幸雄さんいわく、「期待はずれのスロースタート」。
しかし、ある曲が劇的に状況を変えることになります。
これはですね、ビリージーンです、やはり。 あのビデオ・クリップが来た時ですね。そうですね、ディスコでは「The Girl Is Mine」以外のアルバムの曲をかけてくれていて、セールスは最初から止まったわけじゃなくて、じわじわとは来ていたんですね。
そこにビリージーンがきてシングルヒットになって。 それが最初の上昇ですかね。
アルバムが出てから3ヶ月後くらいなんですけど。
アメリカでも、「ビリージーン」のミュージック・ビデオは強烈なインパクトを残しました。
それまで黒人アーティストのビデオ・クリップを、ほとんど流していなかったMTVが、「ビリージーン」のオンエアを決定。
映像メディアを巻き込む形で、マイケルはより大きな存在となっていきます。
5月には、モータウンの25周年記念ライヴがアメリカで放映されます。
このときに演奏した「ビリージーン」で初めて披露したのが、あの「ムーンウォーク」です。
当然あれは日本では流れないですから、エアチェックしたものを送ってもらったんですけど、スタッフが一気に雰囲気が変わったのは、あのビデオを見たときですよね。ビリージーンというビデオは、ムーンウォークもなければ帽子を投げるシーンもないんですけど、あれをライヴで、ムーンウォーク、それで最後の帽子を投げるところで終わるという、あれでみんなぶっとびまして、他にいろいろ宣伝するものがあったんですけど、この年は「マイケルでいこう」となったんですね。
1983年の夏ごろ、ひとつの情報が舞い込みました。
スリラーのショートビデオ、ショートフィルムという呼び方をしていたんですが、「16分間のショートフィルムを作っているよ」という情報が飛び込んでくるわけです。 ジョンランディスが監督をしていると。 我々としてはどんなものがくるのかと。ビデオ・クリップの歴史も始まったばかりだし、それをフィルムという名前で映画監督がプロデュースすると。
まったく想像もつかない状況で。
1983年12月24日、ショートフィルム「スリラー」が日本のテレビ番組では、初めてオンエアされました。
新聞には「聖夜にスリラー」という全面広告。
番組の視聴率は13%を記録。 アルバム『スリラー』の売り上げもここで一気に加速したのです。
年を越して、1984年初頭。
日本のアルバム・チャートで1位を獲得。
『スリラー』は、発売から1年以上たって、ナンバーワンに輝いたのです。
スリラーはいかにその。。。どう言ったらいいんですかね、クオリティといえばその一言なんですが、エンターテイメント性、普遍的なものを、あのアルバムの中にすごく含んでいたと思うんですよね。本人がクリエイターとして成長とした時期だと思うんですよね。
子どものころから「やらされていたと」いう感じがあったかどうか分からないですがやってきて、まあ、才能といってしまえばそうなんですが、自分のアンビションというのは相当強くあったと思うんですよ、制作する意欲、創作する意欲がね。
マイケル・ジャクソン、空前の大ヒットアルバム『スリラー』のHidden Story。。。当時の宣伝チーフ、秦幸雄さんのお話を元に構成しました。
映像の力。 確かに大きかったです。。。この「スリラー」のビデオ。
82年発売なのに、日本で一番売れたのは84年。
レコード、CD、カセットテープ。 すべての部門で年間1位のセールスを記録したそうです。