今週は、バンクーバー・パラリンピックに参加されます、大日方邦子さんのHidden Story。
大日方邦子さん。
1998年 長野パラリンピックで、日本人として初の冬季パラリンピック 金メダルを獲得した、チェアスキーの選手です。
まずは、大日方さんとチェアスキーとの出会いについて うかがいました。
私は東京生まれの横浜育ちで、スキーとか雪には無縁だったんですね。
3歳のときに交通事故にあって、そのあと義足を使って、右足が義足で左足にも障害があって、その頃は歩いて生活していたんです。
小さい頃から活発な性格でスポーツは何でも好きで、義足で生活をするようになってからも特にできないことはないだろうと考えていて。
で、一回スキーをやってみたいなと。小学生のときに、何かでスキーの映像を見たんだと思うんですけど、スキーやってみたいなと言ったことがあって、お医者さんに相談したんです。
でも「立ってすべるのは難しいね」ということで、一回はあきらめたんです。
高校生になって、高校1年のときに、クラスの仲間がスキーにみんなで行きましょう、というチャンスがあって、もう1回できないかなって、そのときも考えたんですけど、やっぱり難しいと言われて、2度目にあきらめたんですね。その数ヶ月後に、たまたま横浜市の総合リハビリテーションセンターが出来まして、そこに行きましたら、そこにチェアスキーの実物が置いてあったんです。
高校1年生の3月、
大日方さんは、座って滑るスキー、チェアスキーに出会いました。
翌年のスキー・シーズン、初めてのゲレンデ。
「まず座ってみて」って言われて、チェアスキーって、通常のスキーと違って、スキーの板が1本なんですね。
スキーの板が1本なので、バランスをとるのが難しいんですよね。
バランスとりにくい分、両手にアウトリガーっていうんですけど、ストックよりはバランスがとりやすいように、小さいスキーが先端についている道具を両手に持つんですね。
「これで体を支えて座ってごらん」って。
「まっすぐそのまま横の方に、斜め下のほうに滑ってごらん」って。
「すーって滑って行って、気持ちいい!」って。
白銀の世界でこんなに風をきって滑れるんだって、感動して、どんどんハマっていきましたね。
「友達と一緒にスキーに行きたい」という気持ちによって始めたチェアスキー。
大学に入ってしばらくすると、チェアスキー協会の方から競技としてのチェアスキーに誘われます。
決め台詞は、「選手になったらもっとたくさんスキーに行けるよ。 うまくなったら世界のスキー場にも連れて行ってあげるよ」って。 もっとたくさんスキーができるのか、しかも世界のスキー場に行けるのかって、すごい単純に考えて、「はい、やります」って、即答しちゃったんですよね。
大学1年生。 大日方邦子さんの競技人生が始まりました。
大日方邦子さんが競技としてのチェアスキーを始めてまもなく、長野パラリンピックの開催が決まります。
大日方さんは、長野のための強化選手に選ばれました。
強化プログラムの第一弾は、94年のリレハンメル・パラリンピックへの参加。
大日方さんは、いきなり、リレハンメル・パラリンピックに出場することになったのです。
日本ではまったく練習していないダウンヒルっていうすごくスピードがある競技があって、「それも出るからね」って言われて、「何なんだろう」って?
で、いざリレハンメル、今日が練習日ですって。
コース見たら、雪が黒いんですよね。氷になりすぎていて、アイスバーンになっていて黒っぽく見えるんですね。
斜面も見たこともないような急斜面で。
一番最初の種目が最もスピードが出るダウンヒルなんですよね。
当然選手としての実力はついていってないので、コーチからのアドバイスは「とにかく安全に滑ってらっしゃい」って。「ええ?」みたいな。
「ケガしないように安全におりてらっしゃい」って言われて、「わかりました」って(笑)
初めてのパラリンピック。
「成績はさんざんだった」と語る大日方さんですが、実は、大きな出会いがありました。
アメリカの選手でサラ・ウィルっていう強い選手がいたんですけど、憧れの選手だったんですね。
そのあと、海外の遠征などでサラ・ウィルと話す機会がだんだん増えていって、彼女のパラリンピックに対する想いとか、自分がどうしてスキーをやっているのかを話すようになったんですね。そのなかで印象的だったのが、「私たちは可能性に挑戦している。みんなは障害があったらできないという風に思ってるでしょ。でも、スキーを通じて、障害があってもこれだけのことができる、っていうのを伝えられるのは素敵だと思わない?」って。
パラリンピックの役割って何だろうとか、障害を持っている人が発信できるメッセージって何だろう?ってすごく考える人で。
「長野パラリンピックはチャンスだよね」って言われて、、、私たちが日本で素晴らしい滑りを見せることでみんなの気持ちも変わるかもしれない。
今、あなたはとても重要な立場にいるんだよって。
パラリンピックは、社会的なメッセージを発信するチャンス。
それまでとは違う想いが 胸に宿りました。
1998年、長野パラリンピック。
リレハンメルでは「安全に滑りおりよう」と思ったダウンヒルで金メダル。
その輝きは、ハンディキャップを持っている人、持っていない人、さまざまな人の心を照らしました。
私だけではなくて、たくさんの日本選手が長野パラリンピックでは活躍されて。
一番知ってもらえたのは、体に障害がある人も競技ができるんだ、スポーツができるだって、多くの人に知ってもらえた。
出来るスポーツというのが、想像以上にインパクトがある。もう少し広く社会的にみれば、障害を持っている人が、家にとじこもるんじゃなくて「自分もスポーツやってみようかな」とか、「もっと積極的に社会に出てみようかな」というきっかけにもなった、と後から聞いて。
逆に障害がない多くの人たちというのは、あ、障害を持ってることは特別なことじゃないし、そういう人がもっと社会に出て行けなくちゃいけない、というのを感じてもらえたと思うんです。一気にバリアフリーという言葉だったり、ユニバーサルデザインっていう言葉もありますけど、一気に街も変わっていったし、対応も変わっていったので、そういう意味では長野パラリンピックはいい遺産を残した大会だったと思いますね。