2010/10/22 佐藤磨の情熱物語

今週の主人公は……レーサー佐藤磨さん。
磨さんは世界の扉をどのようにノックして、そのドアを どんな風に開けたのか?
世界を駆ける男の情熱物語。

1987年の秋、当時10歳の佐藤磨少年は、三重県の鈴鹿サーキットにいました。この場所こそが、少年が繰り広げることになる 冒険物語の出発点です。

当時僕は10歳だったんですけど、そのときに目の前を走るF1を見てすごい衝撃だったんですね。

一番そのサーキットで輝いていたのが、アイルトン・セナだったんですね。
あの日、セナは7位からスタートして、僕の前を通るたびに前の車に追いついて追い抜いて、で、最終的には2位まで上がってしまうんですけど、その日から本当に完全にセナとF1の走りに魅せられました。

しかし、モータースポーツは、簡単に足を踏み入れられる世界ではありません。 磨さんが始めたのは、自転車競技でした。
結果、高校時代、インターハイで優勝するほどの実力者に。
しかし、あの日、鈴鹿で受けた衝撃は、少年の胸を 内側から刺激します。

ほんとにあのとき19歳だったんですけど、10代でもみんなF3っていうF1の下のカテゴリーでプロとしてどんどんデビューしている。そういうものを見ていると、焦りではないですけどね、まだ始めてないので。

そのときにちょうど雑誌の特集で、鈴鹿レーシングスクールの記事があって。
で、その鈴鹿サーキットのスクールは1年間終えたあとにスカラシップの制度があって上位カテゴリーにステップアップできると。で、僕自身はこれしかないと思ったんですね。

スクール自体が世界で戦えるドライバーをつくるってことで、厳しい年齢制限を設定していて20歳以下だったんです。僕がそれを見たのが19歳で、もう翌年に入るしかない!本当にラストチャンスであり、唯一の僕の入口だったので、これしかないと瞬間的に思いましたね。ぎりぎり。いつもぎりぎりなんですよ(笑)

鈴鹿レーシングスクールで1年間。その後、佐藤磨さんはイギリスへ飛びます。
あこがれのアイルトン・セナが若き日を過ごしたイギリスで新しい挑戦が始まりました。

イギリスに渡ったのが1998年、僕は21歳でしたね。

まず1にも2にも言葉だったので、まず、語学学校に通って、ホストファミリーの家に泊まってホームステイしながら、週末はレースに出かけると。

そのときはひどかったですね、レースもひっちゃかめっちゃかだし、全然うまくいかないし。
だけど、イギリス人と同じ空気を吸って、同じごはんを食べて、そういう中で彼らの考え方を知って、それで初めて対等になって、そこから自分らしさ、自分のレースを見せていくと。 それもそのメカニックとのコミュニケーションも、英語のレベルも低いわけだから、お互いの息をあわせていくしかないわけですよ。

僕がこういう風に言った時、こいつがこう言ったときはこういうことなんだなというのを、言葉とレーシングを一緒に見せていかないといけないわけですね。

ダイヤモンド・レーシングという小さな小さなレーシングクラブに所属しながら、佐藤磨さんは、F1への登竜門、イギリスF3へステップアップする準備を進めました。

2000年のシーズン、佐藤磨選手は、いよいよ念願のイギリスF3へステップアップ。そして、2年目、F3チャンピオンに輝きます。
エディ・ジョーダンが率いるF1のチーム「ジョーダン・グランプリ」と契約。
F1デビューが決まりました。

しかし、F1に行く前に、もうひとつどうしても取りたいタイトルがあったのです。

ひとつだけ、F3の最後に僕が達成したかったのが、マカオF3なんですよ。

で、イギリスF3のタイトルをとって、シーズンが終わって……エディ・ジョーダンとね、ジョーダン・グランプリと契約を結んでF1ドライバーになったと。 ただし、マカオ・グランプリというのは、11月なんですよ。はっきり言って、出る意味ないんですよ。 ましてそんなとこ行って、リスクばかりあって。 もし負けたら……かっこわるいしね、まず(笑) 他のドライバーは殺気だって僕をやっつけにくるだろうし。 エディ・ジョーダンからも「出てくれるな」と言われたんですけど。 エディ・ジョーダンもレーサーなので、「そこまで言うなら行ってこい。ただし、勝てよ」と。勝ち以外は認めん、みたいな感じだったんですよ。 僕自身もこのときは相当プレッシャーかかりましたね。

優勝以外ないわけですよ。

自らが課したプレッシャーのなかで臨んだマカオF3。
佐藤磨選手は、見事優勝を果たしました。

翌年、ついに、夢に見たF1のファースト・シーズンが始まります。
序盤は、車のテストがろくにできず、苦戦。
しかし、挑戦する若者を幸運の女神は見つめていました。
そのシーズンで 初めてしっかりとした事前のテストができた、母国開催 鈴鹿グランプリ。

もう楽しみにしていたしね、鈴鹿を走るのは。

だって、87年に10歳でフェンスの向こうから初めてF1を見ていて、その10年後に今度はSRS―Fでレーシングカーに乗って初めて走って、で、その5年後にF1で戻ってくるわけですよ。 で、もう、1コーナーっていうかね、メインストレートから見える景色が全然違う。
スタンドがもうすごいファンで埋め尽くされていたんですよ。

僕自身、レースに集中しているのでスタンドを見るということはないんですけど、コーナーによっては、目が合う場所があるんですね。
そんときに常にスタンドが揺れてたの。

初の母国グランプリで、5位入賞。
磨選手いわく、「普通はマシンの音で聞こえないはずの歓声がこの日は聞こえた気がした」

2010年、佐藤磨選手は、インディカー・シリーズに参戦しました。
そして2011年、その視線の先にあるのは……

もちろんインディカー・シリーズに100%集中してやりたいです。自分自身がF1にこだわってやってきたところはあって、夢だったし……
でもレーシング・ドライバーとしていちばん大事なのは走り続けることだと思っていたし。
そういう意味で、中途半端な形でインディを始めたくなかったんですね。
自分としては覚悟を決めて、新天地アメリカでやっていくぞということで始めたので、ここまできたらトコトンやりたいですね。
来シーズン、インディで思い切りやりたいと思ってます。

「大事なのは、走り続けること」。 それはすなわち、挑戦し続けること。
佐藤磨選手の情熱は世界を走り続けます。