今週は、アメリカのメジャーリーグ・ベースボールでの審判を目指す日本人、平林岳さんの挑戦物語。
1991年、当時25歳の平林岳さん。
大学を卒業して数年、ファミリーレストランなどで働きながら審判を志すものの、日本のプロ野球では採用されない日々。 情熱は、分厚い扉の前で立ち尽くすだけでした。
しかし……ひとつの扉が閉じたときは、もうひとつの扉が開くとき。 遠く海の向こうに、開きかけた扉があったのです。
日本でセリーグとパリーグに不合格になって行くところがなくなったわけですよ。
もうあきらめなきゃいけないのかなと思っていたんですよ、そのころは。
で、当時、アメリカの審判学校という存在を知っていて、アメリカではそこに行ってプロのマイナーリーグの審判になる、というシステムがあるんですね。そこで体験ツアーというのをやっていて、それがあるのも知っていたんで、一回は見てこようかなというので参加したのがきっかけですね。
アメリカの審判学校の体験コースで衝撃を受けた平林さん。
「アメリカでやりたい」
その想いを胸に、アリゾナの審判学校に入学することを決めます。
時は1992年。 あの野茂英雄投手がメジャーに行く前の話です。
ただ、英語が全然できなかったんで、行ったとしても採用にならないと思ったし、最初から「行くだけ」とは何となく思っていたんですね。
でも、審判学校に入学しました。 半分くらいは、あきらめるつもりで行ったんです。
審判を目指すアメリカの若者と一緒に5週間やって、自分はそのレベルにないと思ったらあきらめるつもりだったんですよ。 それで行ったら、運が良かったとしか言いようがないんですが、採用してもらったんです。
マイナーリーグの一番下のリーグ、アリゾナのルーキーリーグに配属。
平林岳さんの審判としてのキャリアは、ここから始まったのです。
もちろん、日本人はたったのひとりでした。 そして……
次の年は一個段階が上がってシングルAというところに行けたんですね。
ノースウエストリーグっていうんですけど、移動がすごく多くなったんですね。 長距離の移動を車で運転して行ってお互いに……ふたりでやるんですね、審判って。
シングルAとかルーキーリーグって。 そのふたりで移動して回る生活になったんですね。
一番長いので、600マイルですから、900キロくらいですかね。
しかも移動日っていうのがほとんどないんで、夜試合が終わってそのまま移動して、朝とか昼に着いて、昼寝して、そのまま試合という感じですよね。
アメリカでベースボールの審判のキャリアをスタートさせた平林岳さんですが、1994年に帰国。
日本のプロ野球、パ・リーグで審判に。 以後9シーズン、日本の球界で 仕事をされました。
しかし、アメリカへの想いが日ごとに募ります。
日本の方が給料もアメリカのマイナーリーグでやるよりももちろんいいし、その間に結婚して子どもも生まれて家族もできたんで、そのまま我慢してやっていればそれなりにいい生活ができたと思うんですね。ただ、審判って仕事じゃないんですね、仕事というよりは僕の好きなことなんですね。年々向こうでやりたいという想いはどんどんつのっていったんですね。
家族もできました。 安定した収入もあります。
情熱を胸の奥に抱えたまま、時が過ぎていきました。
僕からは言えなかったですよね、ずっと。 行きたいと思ってましたけど、さすがにパ・リーグやめて向こうでやるとは言えなかったんですよね。 それであるとき、嫁さんから言ってくれたんですよ。 多分嫁さんは、テレビとか見てて「あいつ俺の友達だよ」とか「いいな」とか言っているのを聞いていて、「きっとお父さん多分向こうでやりやいんだろうな」と気づいていたんですよね。 だからそういう風に言ってくれたと思うんですよね。
2003年。再び、アメリカでの挑戦が始まります。
もう一度、審判学校、さらにアリゾナのルーキーリーグ。
マイナーリーグの一番下のリーグからのスタートです。
もうあとに引けなかったというところですかね。
パ・リーグを辞めて行ってますから、もう1回戻るわけにはいかないし。 向こうで挑戦するしかないという気持ちでやってたんですかね。
ルーキーリーグからシングルA、ダブルA、そしてトリプルA。
年を重ねるごとにステップアップ。
今年は、トリプルAのパシフィックコーストリーグで審判を務めました。
メジャーリーグへの道はまだ途中。
でも、平林岳さんには何より大切なことがあります。 それは……
いま思うのは、審判というものに出会えてやってよかったなということですね。
僕が人に誇れるものがあるとすれば、中学2年のときにこういう夢を持って努力してきて、いま44歳ですが、いまも同じ夢を追い続けているっていうのが「人に何か誇れるところある?」って言われたら、そこだと思うんですよね。
そういう目標をずっと持っていられて、ずっとそれに挑戦していられるというのは幸せだと思っています。