今週は、スタジオジブリ最新作、映画『コクリコ坂から』の制作秘話。
映画『コクリコ坂から』、監督は宮崎吾朗さん。
2006年公開、『ゲド戦記』以来のメガホンです。
今回の作品、原作は、1980年代に『なかよし』という雑誌に連載されていたマンガ。
僕の祖父が持っていた山小屋があって、そこに僕とか従兄弟達が毎年夏になると遊びに行っていたんですね。そこに従兄弟の子が当時『なかよし』という少女漫画雑誌を持って来て、その山小屋ってろくなテレビもないし、新聞もなければ読むものもない。なので、みんなで雑誌を回し読みするという時期があったんです。
そのあと、宮崎駿っていう人もその山小屋に行って『なかよし』を読む……きっかけはそこなんですよね。僕はそのとき、もう、大学生になっていたんですけど、宮崎駿、鈴木敏夫、押井守、それからエヴァンゲリオンの庵野さんとか、そういう人たちがその山小屋に集まって、やることないもんですから『なかよし』を読んで、「コクリコ坂」について語る、ということをやっていたんですよ。
何を語っていたかと言うと、連載の頭とお尻がなかったんですよ。全巻、(揃って)なくて……「冒頭はどういう冒頭なのか」「ラストはどうなるのか」というのを、みんなで話し合ってたことがある、というのが今回のきっかけですよね。
宮崎吾朗さんの父、宮崎駿さんをはじめ、その後の日本のアニメ映画界を担う重要人物たちが議論を交わした『コクリコ坂から』。
今回、脚本も手がけた宮崎駿さんからの提案で、映画化が決まりました。
原作からの大きな変更点は、時代設定。
舞台が、原作の1970年代後半から1963年=東京オリンピックの前の年に変わりました。
原作には無い戦争の匂いというのが漂っている。だから単に高校生の恋愛話じゃないなという感じはありましたよね。
舞台を63年(1963年)にすることで、主人公のふたりのお父さんとかお母さんたちの青春時代が戦争中になるわけですよ。そうすると過去のいきさつと言ったときに必ず戦争が出てくる。だからそういう意味で、戦争にほんろうされた両親達とその子どもという脚本になっているんですね。だから63年というピンポイントの時代を描いているということですが、全体から見ると、戦争からこの間「何があったのか」「そこで普通の人たちはどうやって生きたのか?」結果的にそういう要素が入って来た。
『コクリコ坂から』の舞台は、1963年の横浜。
主人公は、高校生の少女、海と同じく高校生の少年、俊。
ふたりが通う高校で、「古い建物を取り壊そう」という動きが起こります。
そのシーンに宮崎吾朗監督は、こんな内容の台詞を書き加えました。
「古いものを壊すというのは、自分とつながる人々が生きて来た歴史を消してしまうことだ」
63年というと翌年が東京オリンピックですから、新しいものをどんどん作って、自分たちを自分たちの手で作り替えちゃおうという時代だと思うんですよね。そこからスタートして今に至るまで、基本的には新しいものを作り続けてたのが日本だと思うんです。古いものよりも新しいものということを続けて来た。そのスタートが63年なんですね。
でも、そのときに、いやちょっと待てよ、ってやってたら、もしかしたら違っていたかもしれない。映画作りながら、そんな気はしましたよね。
高度成長期、新しいものを作り続け、スピードを追い求め続けた日本。
宮崎監督はこう言います、「〔ちょっと待てよ〕と立ち止まっていたら、違う〔今〕があったかもしれない」
『コクリコ坂から』。
映画の大きなテーマは、「人を恋うる心」。
人を恋うる心とは?
最初は女の子と男の子の初恋のことを取り上げて「人を恋うる心」だと思っていたんですが、そうではなくて、海ちゃんて子が両親のことを想うとかね、お母さんがお父さんのことを想うとか、お父さんたちが友人たちのことを想う。人と人が一緒に生きていれば必ず関係があって、その関係のなかで誰かのことを想うわけじゃないですか。「無事でいてほしい」とか「元気でいてほしい」。そういうことが人を恋うる心っていうんですかね。恋しく想うというのは、大事に想うという、そういう人と人との関係を描くのがこの映画のテーマなんだって。
これはもう結論として出たことで、「最後にたどりついた答え」そんな感じです。
主人公の少女、海の父は 船の仕事をしていましたが、事故で帰らぬ人となります。
しかし、海はその後10年ものあいだ毎日、海を渡る船に向けて、信号となる旗を上げます。
その旗が意味するのは、「安全な航海を祈る」。
無事でいてほしい。元気でいてほしい。大好きな人と一緒にいたい。
そして、上を向いて歩こう。
1963年の少年少女の物語は、2011年の私たちに優しくも力強いメッセージを届けてくれます。