2011/8/19 藤子・F・不二雄ミュージアム

今週は、ただいまオープンへ向け準備が進む「藤子・F・不二雄ミュージアム」のHidden Story。

『ドラえもん』『パーマン』『キテレツ大百科』。
時代を超えて愛される作品を発表し続けた漫画家、今は亡き、藤子・F・不二雄さん、本名、藤本弘さん。
彼にまつわるミュージアムが川崎市にまもなくオープンします。
開館準備で慌ただしい中、副館長の大倉俊輔さんにお話を伺いました。

藤子・F・不二雄先生というと、どうしても「トキワ荘」のイメージが強いと思うんですね。
「高岡から出て来て、トキワ荘でいろんな先生方に揉まれながら、一緒に青春時代を過ごしながら、漫画を描いて行って大作家、大漫画家になっていった」というイメージが強くあると思うんですが、実は、『オバQ』とか『パーマン』とか『ドラえもん』とか代表作と言われるものを描いたのは、トキワ荘を出て、生田に転居されてからなんですね。ずっと亡くなるまで生田に住まれていて、そういう意味で生田と先生とのつながりは、かなりありまして……

このミュージアムがここにある場所も、向ヶ丘遊園の跡地で生田なんですけど、先生は昔、ここによく遊びに来られていて、お子様方と遊びに来たりとか、お花見に来たりとか、非常にゆかりのある場所なので。

1996年にこの世を去った藤子・F・不二雄さん。
5万点にもおよぶ原画を残されました。

「原画を広く多くの人たちに見て欲しい」という想いがありまして、5万点近くある原画なんですけど、奥様の想いとして「藤本弘を支えてくれた子どもたちに恩返しをしたい」という気持ちが強いんですね。わずかなお小遣いの中から『ドラえもん』とか漫画を買ってくれた子どもたちに「何か恩返しをしたい」という想いから始まっていて……

先生が亡くなるときに、奥様は病床で看とられたんですけど、「あなたの原稿は私が守るから」と思われたそうなんですね。
それはなんでかと言うと、漫画家の原稿って亡くなったあとに散逸したりするじゃないですか。
奥様は「原稿というのは先生が生きていた時間だ」とおっしゃっていて、「大切な原稿を未来に残していきたい」という想いが強かったんですね。

「藤子・F・不二雄ミュージアム」
原画を展示することが、ひとつの軸となっています。

これはね、本当にいろんな苦労があったんですけど「藤子・F・不二雄先生のミュージアムが出来るぞ」となったときに、多くの方が「ドラえもんのテーマパークができる」と思いがちじゃないですか。
でも、我々としてはそうじゃなくて、最初の想いというのは、原稿を大切にするという想いなので、美術館であって原画を中心に見てもらうというのが一番の想いなんですね。なので、原画をどう飾るかというのは非常に苦心して考えました。

藤子不二雄先生は子ども目線に立っていた方なので「子どもたちが、楽しく原画を見られないといけないだろうな」というのがありまして、例えば1階の展示室では「引き出し展示」というのがありまして、原画のなかの世界を立体物として作ってみるみたいな、そのなかにのび太のミニチュアの部屋があったりとか、子どもたちが楽しんで見られるように考えたんですね。

2011年9月3日、川崎市にオープンする「藤子・F・不二雄ミュージアム」には、「先生の日曜日」というコーナーが設けられています。

じゃあ、家庭人としてどうだったのか。 というのはあまり知られていないと思うんですよね。

家庭人としてどうだったのかを、いろんなインタビューを通して奥様やお嬢様から聞くと、本当に家族を大切にされた方なんですね。家庭愛に溢れた方だったんですよ。

漫画家さんは絶対的に忙しいので、言ってみれば「ほとんど徹夜で家に帰れない」ということもあったかと思うんですが、どんなに忙しくても先生は家にお帰りになって、朝は娘さん、3人いらっしゃるんですけど、3人の娘さんと一緒に朝食を囲んでいたという事実があって。なんだろう、あったかいんですよね。
僕もドラえもん大好きだし、先生大好きなんですけど、ドラえもんを読んで感じる「何とも言えないあたたかさ」というのは、ご家族との関係から話を聞いていると自然と出てくるんですよね。

「お子さんと一緒に過ごす時間というのが、漫画を描くうえで非常に大事なんだったんじゃないかな」と思っていて、先生の作品を見ると、どれも子どもたちの日常が描かれていて「子どもの本質って変わらないんだな」と思いますよね。
それもすべて「ご家族の愛に裏付けされているな」と思って。

「あんなこといいな、できたらいいな。」
藤子・F・不二雄さんが、子どもの夢を漫画の世界に描き込んだのが『ドラえもん』だったのです。

ミュージアムの副館長をつとめる大倉俊輔さん。
かつて、テレビアニメのプロデューサーをされていたときに、藤子・F・不二雄さんにお会いになったことがあるそうです。
そのときにかけられた言葉とは……

ある剣士の話が始まってですね、山奥に隠棲している剣士がいて、すごい剣士だと。
ある少年がその剣士に教えを請おうと毎日訪ねる。帰りなさい、と相手にしてくれないんだけど、あるときその情熱に負けて。ひとつだけ教えてやろうと。
剣の握り方を教えてやろうと。剣を握るときは、手と手のあいだに小鳥がいると思って握りなさいと。きつく握ると中の小鳥は死んでしまう。ゆるく握ると小鳥は逃げてしまう。

だから、この握り方が極意であると。「それを教えて貰った少年はすごい剣士になった」という話をされたんですね。
で、キャラクターづくりもこの剣の握り方と同じだとおっしゃったんですね。番組の企画を書いていったときに、キャラクター設定を固めすぎていて、このままだとキャラクターが死んでしまいますよ。でも設定をバラバラにすると物語自体がどうなるか分からない。その間をうまくやるのが、っていうのをおっしゃりたかったっていう。

ストーリーのなかで、ドラえもんが誕生するのは、2112年の9月3日。
つまり、「藤子・F・不二雄ミュージアム」は、ドラえもんが生まれるちょうど101年前、2011年9月3日に開館します。
今の日本だからこそ伝えたいメッセージ。副館長、大倉俊輔さんの言葉です。

我々のできることはやっぱり「出来ることをやる」ってことかなと思っていて、「先生がもしご存命だったらどうされたかな」と、僕、考えたことがあって。多分、淡々というか、ドラえもんの漫画を描き続けたと思うんですよね。

ドラえもんを読むと元気になれる。僕は元気になれたひとりなんですけど、やっぱり、ジャイアンとか、スネ夫とか、出木杉みたいな子どもって、少ないじゃないですか。みんなどっちかと言うと、のび太側じゃないですか。
僕もそうなんですけど、のび太ってダメな奴だけど、でもやさしくて、地球がピンチになったときなんかにはやることをやるというか、そこが本当に素晴らしいキャラクターで、だからこそ元気になれるんで。

先生は漫画を通して子どもたちを勇気づけてこられた方なので、本当に亡くなるギリギリまでドラえもんを描かれていた方なので、我々も、自分たちに出来ることをやって勇気づけられたらいいなと。

ダメな奴だけど、やさしくって、いざというときは立ち上がる。
それが、藤子・F・不二雄さんが描いた のび太君でした。
今を生きる私たちに、ドラえもんはいないけれど、のび太君はあなたのすぐ側にもきっといます。
家族を愛し、大切な人を愛し、夢を描く人。
それは、藤子・F・不二雄さん、その人のことだったのかもしれません。

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