2012/1/20 銭湯絵師、中島盛夫さんの情熱物語

今週は、銭湯の壁に絵をかく銭湯絵師、中島盛夫さんの情熱物語。

湯気の向こう側、銭湯の壁一面に描かれた富士山。
湯船につかりながら人々はその絵をながめ、深く息をつきます。

しかし、今や、その絵をかくプロフェッショナル、銭湯絵師は日本に二人しかいないと言われています。
そのおひとりが今日の物語の主人公、中島盛夫さん。

昭和38年、田舎から、田舎は福島県なんですけど、そこから出てきまして、初めて銭湯に行ったんですね。そしたら、背景に絵がありまして、うわ、すごい大きな絵で、描いてみたいなと思ったのが最初。

一年くらい、そのまま風呂に入っていたんですが、一年くらいして39年に、新聞の求人広告、3行くらいのを見たんです。助手を探しているということで。で、そこに行って、弟子入りというか、それが39年です。

名人と呼ばれた、丸山喜久男さんの元に弟子入りした中島さん。
最初に任された仕事は……

もう、毎日毎日、空の部分を3年間。
今はローラーでやってますけど、当時は刷毛で。3年間ずっと空塗りばかりですわ。

ディレクター:それは富士山の空ですか?

そうです。

その3年の間にだんだん慣れてくるでしょ、早くなるのね。そうすると、今度は雲の部分を描かせてもらったりとか、もうちょっと慣れてくると水の部分を描かせてもらったりとか。で、男湯と女湯を森で繋げるんですね。そこをやらしてもらったりとか。で、3年経ったら、全体なんて描いたことないのに「女湯を描いてみな」と、即、描かされるんです。男湯はね、割と丁寧に描くというか、男の人は風呂に入りながら絵を見たりとか、女の人は子どもの世話をやりながらだから、それほどボヤっと見てるというか。

男湯は荒々しくて女湯は静かな絵を描く。海にしても波のおだやかな。男は波の荒い海だったりとか。
だから今でも男湯から描くんです。

26歳で独立。
昭和40年代……それは、銭湯が街にたくさんあった時代でした。

毎日毎日描いてましたよ。忙しいときは一日2軒。
2軒のときは、最初に休みじゃないお風呂屋さんに行って、2軒目は休みのお風呂屋さんに行く。

もう大変よ、だから昼飯も抜きで。

最も描く機会が多いのは やはり、富士山。

難しいですから、富士の稜線が。

富士山の角度というのが本当に難しい。見る場所によって違いますしね。富士山の360度、ぐるっと回って。30代のころは毎週3ヶ月間、日曜のたびに行きました。富士山を見ていると飽きないんですよ。時間によっても違いますし、もう1時間おきくらいにバーっと色が変わっていくんです。雲の流れがあったりとか。もうほんと飽きないですね。場所によって全然違いますんでね、富士山は、面白いね、というか難しい山。

いくら描いても描いても描ききれないというか、それだけ難しい山。

では、これまで描いた中で、最も気に入っているのはどの銭湯の富士山なのでしょうか?

毎回毎回、満足して帰ってくるのよ。
ところが、次回行って描きかえる。すると、ん〜前の絵はちょっと、という感じ。それは今も同じです。

よく言われるんですよね、「どこの絵がいい?」って。今日描いたのが一番なんですよね。

実は、中島盛夫さん、生まれたのは 福島県の飯舘村です。
震災後、中島さんは、テレビ番組の取材で川俣町に避難する飯舘村の子どもたちに絵を教えました。

子どもたちに絵を描かせると、できるだけ明るい絵を描くように言ったんですね。
ところが、描いたのをみると、明るく夢はあるんですよ、ところが牛を見ると、牛の、痩せ細った牛の目が泣いてるのね。そういう絵を描くのよ。

このとき、中島さんは、川俣町の銭湯の壁に大きな絵をかきました。
これまで何度もかいてきた富士山と、愛する故郷、飯舘村の風景を。

渓谷のようなところで育ったから、渓谷の絵を描くのが好きなんです。
子どものころ、山で遊んでたでしょ、暗くなるまで。
その場所がねぇ、いま、放射能の測定しながら撮影するような状態だから。いつまで続くのか……

銭湯の壁に絵を描くとき、いつも まぶたの裏にあったのは、生まれ育った飯舘村の自然でした。
傷ついたふるさとへの想いを胸に、銭湯絵師、中島盛夫さんの仕事は続きます。