今週は、東日本大震災の後、東北で精力的に活動を続けるフォト・ジャーナリスト、安田菜津紀さんのHidden Story。
2011年3月11日、東北地方で地震が発生したその時、フォト・ジャーナリスト、安田菜津紀さんはフィリピンにいました。
最初は日本からの1本の電話から始まって、そのときは、「東北で地震があったみたいで、一応お伝えしておこうかと思いまして」という緊張感のない電話で、最初誰も状況を把握できなかったんですが、その日のうちにどんどんどんどん日本から電話が入って来て。
「これは、ただごとではないな」ということを知って、翌日にフィリピンにもわずかですが津波が到達して、そのときに初めてヴィジュアルで見たんですね。地元の新聞の一面に陸前高田市の写真が、グチャグチャになった写真が載っていて……同僚の同じ事務所で働いているジャーナリストの佐藤慧がいるんですが、彼の両親が陸前高田市だというのは知っていたので、まあ、これはすぐにその街に向かわなければいけないなと思って、日本に帰国しました。
日本に帰国した安田さん、すぐには東北へ向かいませんでした。
佐藤とも話し合って、現地で何が必要なのかもわからないし、大人数で押し掛けるのが迷惑かもしれない。なので、私は東京に残って、佐藤は現地に行って何が必要か調査をするという役割分担をして、でも、そのときも行くのか行かないのか葛藤がありました。
なぜ、カメラマンが現地に行くのか? あるいは、なぜ、カメラマンなのに東京に残っているのか? 答えが出せずにいたんですけど、そんななかで、3月の20日くらいになって、現地に行っている佐藤から「被災の範囲が広すぎる。とにかく情報を正確に把握して発信していく人が圧倒的にたりない」ということで、3月の25日ですね、現地に入りました。
同僚のジャーナリスト、佐藤慧さんのご両親が暮らしていた岩手県の陸前高田市へ。
街全体がごっそりと無くなったような光景に安田さんは言葉を失いました。
安田さんがやったのは、佐藤さんの両親を探すこと、そして、避難所へ物資を運び続けること。
写真を撮影したのは、たったの1回でした。
3月中、ほとんど唯一シャッターを切ったのが、陸前高田にかつて7万本の松林、高田松原というのがあったんですけど、そこがほぼ更地になってしまったなかで、そのなかでたった1本だけ残っていた松、最近ニュースにも取り上げられて有名になってきているんですが、その松が何か希望の象徴のような、何か力を与えてくれるような気がして、私は夢中になってシャッターを切って、それを後日、被災した方に見せたことがあったんですね。そしたら、その方の表情が一変して、声を荒げて、「どうしてそんなに海の近くまで行ったんだ、危ないじゃないか」と。その方は首まで波につかって、ご家族を奥様を亡くされた方だったので、そのときの記憶がその一枚で蘇ってきてしまった。
私たちのように「以前の姿を知らない人にはあの松は希望の松に見えるかもしれない。でも、7万本の松が生えていた、そのときの姿を知っている人にとっては、あの一本松の姿というのは、波の威力を象徴するだけのものでしかないんだ」と言われて。ああ、私は誰の立場にたって希望を見つけようとしていたのか? そして、何のための力を、希望を探そうとしていたのか? と、自分を恥じたというか、「もう1回、原点にかえらなければいけない」と思ったのがそのときでした。
震災後、写真を撮影することはほとんどなく、陸前高田市で被災したみなさんを支援し続けた安田菜津紀さん。
再び、カメラを手にしたのは、4月の後半でした。
陸前高田市のなかでも、4月の21日になってようやく少し遅れて小中学校の入学式が始まっていたんですけども、街の写真館も被災していますし、学校の先生も被災しているし、余裕がない。そんな中で「記念写真を撮る人がいない」ということがわかって、「ああ、それだったらお手伝いできるかもしれないな」ということで、小学校中学校あわせて6校のお手伝いを写真家の先輩の力も借りてやりました。
私が担当させていただいたのは、気仙小学校というところだったんですけど、校舎は全壊しているんですね。全壊しているにもかかわらず、避難所にも指定されていた小学校で、地震があって近所の方々が集まって来たところに、津波がきて。少し前に高台に避難していた子どもたちは、大人たちが足下で流されていくのをただ見ていることしかできなかった。
入学式も高台にあった校舎が無事だった小学校の図書館を使って本当に小さな入学式が行われました。無事に入学することができた新年生はふたり。彼らふたりを迎えることができる先生たちの喜びですとか、親御さんの誇りですとか、上級生の笑顔であるとか、そういうものが小さな教室にうわ〜っとあふれていて、これは、1秒もシャッターを切るのをためらってはいけない、一瞬も逃してはいけないということで、無我夢中でシャッターを切って。
その入学式で、保護者の代表の方が、ふたりの新入生にこんな挨拶をされました。
「ふたりの命はみんなにとっての宝物です。だから6年間、これだけは約束してほしい。その命をこれから6年間、磨き続けてほしい」
安田さんは、その言葉を聞きながら、こう思いました。
結局、写真というのは、そこに映るみなさんが喜んでくださる写真、それを超えられるものはないんだな。どんな写真を撮っていても、最終的にはそこに生きている人の、映っている心に届かなければ、意味がないんだなということを痛感して。
「どんな写真が撮れるか」ではなくて、「写真を通して、この街でどういう役割が担えるのか」と考えられるようになりましたね。
その後、安田さんは、津波のために泥をかぶってしまった写真をきれいにする作業。
さらに、子どもたちに「使い切りカメラ」を渡して自由に撮影してもらう、という写真教室を開催しました。
今、春を待ちながら、ひとつの計画が進んでいます。
私が今お世話になっている米崎小学校の仮設住宅の集会所で『桜ライン311』というプロジェクトが進んでいます。
地元の方々が中心になって行っているプロジェクトなんですけど「津波の到達点に沿って、桜を10メートルおきに植えていこう」というものなんですね。
で、数えてみると、陸前高田市のなかで1万7千本になるそうなんですけど、これまで陸前高田は何度も何度も津波の被害にあってきた、なのに、危険地帯に街の中心地ができてしまっていた。
自分たちが味わった悔しい想い、悲しい想いを二度と後世に、子どもたち孫たちに味わせたくない。だったらどうやって人間の記憶以外に津波の記憶をとどめられるかということで、桜の木に震災のことを覚えておいてもらおうということで始まったプロジェクトなんですね。それをずっと取材しているんですけど、なので、これからは現地の方々が立ち上げたもの、現地の方々が自分たちの力で進んで行こうとするもの、それを後押しできるような写真、あるいは報道ができればなと思って、取材を続けています。
前を向いて歩こうとする人々の心をそっと後押しできるような写真を。
街に寄り添い、人とつながり、安田菜津紀さんの取材は続きます。