今週は、ダンサー、振り付け家、康本雅子さんのHidden Story。
Mr.Children『帚星』、一青窈『指切り』、ゆず『シシカバブー』。
数々のミュージック・ビデオの振り付けも担当してきたダンサー、振り付け家、康本雅子さん。
そもそもダンスに興味を持ったきっかけは?
最初は中高のダンス部、部活動ですね。
その中学に入る前に文化祭を見に行って、そうするとダンス部が華やかじゃないですか。
それで、何となく。その当時は先輩が教えてくれるステップを真似る、お遊びですよね。
コーチが来るわけじゃないので。
その後、康本さんの踊る場所が変わります。
ディスコですね、私の世代は。
ディスコにちょうど行き始めて……何がかかってたかな、ボビー・ブラウンとか、ランバダが結構流行ってましたね。クラブとかじゃない、ディスコ。でも、気持ちは健康的で、ひたすら踊りに行っていたんで……昔のディスコってビュッフェみたいのがあって、ガーッと踊って、うどんとかガーッと食べてジュース飲んで、うどん食べて踊って、みたいな。
大学時代、ダンス・カンパニーに入団。作品にも出演しました。
しかし、20歳前後……康本さんの心は揺れていました。
タイ、ネパ―ル、インド、そして再びタイ。康本さんはアジアを放浪。
さらに、旅は続きます……
ブラブラしているのも飽きて、働きたいなと思ってオーストラリアに行くんです。
オーストラリアに行った時に、ジャマイカからダンスを教えに来ているアメリカ人に会って、彼のやっているのがアフリカンダンスだったんですね。それですごく面白かったんで本場を見たいと思って、一度日本に戻ってお金を貯めて、セネガルに行くんです。
セネガルのときは本当にダンスを目的に行ったので、ダンスのグループに入れてもらって毎日稽古ですね。街の1グループに入ってみんなでワイワイやる、という感じでしたね。だいたい太鼓をたたく人とパーカションとダンサー、ダンサーは女の子が多いんですけど。ダンス三昧でしたね〜。海があるんで、海で遊んだりという日もありましたけど、基本ダンスで、夜はナイトクラブで踊って、昼は海岸でみんなで練習して……
アジアの国々、オーストラリア、そしてアフリカのセネガル。
さらに、大西洋を渡ってニューヨークへ。
ダイナミックに動き続ける20代前半でした。
帰国後、康本さんはついに決意します。ダンスを仕事にしよう!
ものすごく遠回りして「仕事しなきゃ」って、ようやく思うっていう、ね。
もういい年だし、スキルもないし、それでダンスしかないかな〜って。ダンスしかないというのも偉そうな話で、その時点でダンスで食べられるかって言ったら食べられないですよ。でも、仕事したいものがあるとしたらダンスしか思いつかなかったという感じですね。それで、パパイヤ鈴木さんが制作でいた事務所があるんですけど、そこに入れることになって、ちょこちょこ仕事しつつ、という感じですね。パパイヤさんの事務所にいたときの一番大きな仕事がサザンのツアーダンサーで、たまに前に出て来てとか言われて、下りないといけないときがあって、うわー同一線上に来ちゃった、みたいな。よくからんでくるので、桑田さん。それはガーッといかないと釣り合わないんで。それは鍛えられましたね。動じないという。
やがて、康本さんは自分でダンスを作るようになります。
そして、世界を旅した康本さんが最も大きな出会いだったと振り返るのが……
松尾さん、松尾スズキさんの舞台にアンサンブルで募集があって、それを受けて、そこに出ることができて、その流れで何年か後でしたかね、松尾さんに振り付けの仕事を頼まれて、それがきっかけで松尾さんの舞台に関わるようになったのが、大きいですね。
人生のなかで一番大きいんじゃないですかね、松尾さんとの出会いが。
松尾スズキさんの舞台を見た人から仕事の依頼が舞い込むようになりました。
ミュージシャンのプロモーション・ビデオの振り付け、ライヴツアーの振り付け。多くの人が康本さんの考えたダンスを目にしました。
ダンサー、振り付け家、康本雅子さんに最後にこんな質問。
これまでのダンス人生、振り返ってみて、どんな感想を持っていますか?
運がよかったなとは思いますね。
自分の技術が全然ないのに、それよりも大きな仕事がいつも来ていたんですよ。でもやるしかないじゃないですか。
そこからはったりをかましていくというか、引っ張られて引っ張られて、という感じはありますね。
いつもジャージを着ていることが多いという康本さん。
それは、すぐに稽古ができるようにしておくため。
この日もご自宅の近くでの取材が終わると、青いジャージ姿で手を振りながら取材場所を後にしました。