七夕 前日の今日は、「都会の星」という写真展を開催中の東山正宣さん。
あの「はやぶさ」帰還の写真も撮影した東山さんのHidden Story。
» 都会の星
小惑星探査機「はやぶさ」帰還の写真で、その年の新聞協会賞特別賞を受賞した東山正宣さん。
実は、カメラマンではなく、朝日新聞の記者です。
「宇宙飛行士の若田光一さんが、国際宇宙ステーションに長期滞在していた」のから、「帰還するのをアメリカで待ち受けて取材したり」とか、それから「野口聡一さんが翌年に、ISSから今度はカザフスタンに帰ってくるというので、カザフスタンにパラシュートで降りてくるのを取材したり」とか、で、その直後に、今度は「カザフスタンから帰って来て2日東京にいて、すぐにオーストラリアに転戦して「はやぶさ」の帰還を取材した」という。2010年の6月はそういう感じでしたね。
オーストラリアのウーメラという町。
日本の取材陣は、その街を拠点に「はやぶさ」帰還を待ち構えていました。
「はやぶさ」は何度もトラブルに見舞われて、帰って来たのは2010年の6月ですが、その前の年にはエンジンが止まっちゃったりして「これはもうダメかな」というところまでいったんですが、3月くらいまでには「これは結構いけるよね」という雰囲気はあったと思います。
でも、最後は、難しいのは細かな方向転換をしないといけないんですよ。
ちょっと離れるだけで、オーストラリアに落ちるのが太平洋になるかもしれないし「そんな細かな制御ができるのか」というのはみんな半信半疑だったと思います。問題はもうひとつあって、基本的に「原稿だけなら、現地に無理矢理行かなくても書けるかな」という感じなんですが、写真自体は現地に行かないと取れないと。
それでオーストラリアに行ったんですが「晴れないと映らないでしょう」と。で、この時期、6月というのは、オーストラリアでは雨期らしいんですよ。
運命の、6月13日。天候は、朝から晴れ。
当日の朝は確かに晴れていたんですが、夕方、雲が広がりだしたところがあって、「はやぶさ」を撮影した写真があるんですが、「はやぶさ」が右下から左上に突っ切っていくという写真なんですが、その画面の右下のところに雲が写っているんです。
その雲が1時間くらい前までは頭の上にあって、それが東から西へ「すーっと」流れていったあたりで「はやぶさ」が帰って来たんです。
「はやぶさ」が地球に戻ってくるその夜。幸運にも雲が通り過ぎ、空は晴れました。
あるときひとりが「あ、あれだ」と言って、オレンジ色の光がだんだん確かにあるな、そうこうしているうちに、桜の花が散るようにハラハラハラと崩壊しはじめて、燃え尽きて、まずは青白くそのあとはピンク色に爆発して、で、燃え尽きて消えていくというときに、その中からカプセルの光が通り過ぎて、ほとんど真上を抜けていって、南十字星の上のあたりで消えて行くという、下から見ていると天の川の中に消えて行くように見えたというだいたい40秒間の出来事だったという……
それ以前から天体写真を趣味としていた東山さんには他の新聞社とは一線を画す アイディアがありました。「天の川と一緒に「はやぶさ」を写したい」。
天の川をきれいに出すには「3分くらいシャッターを開けていれば、天の川もそこそこ明るく写るな」と分かっていたので、「はやぶさ」は、端から端まで消えて行くまでに40秒くらいなんですが、2分以上も「「はやぶさ」は、いなくなっているけれども、真っ暗な闇のなかでシャッターを開け続けた」というのがこの写真なんです。
あの、午後11時前っていうのは、締め切りぎりぎりなんです。朝刊の。ほんとうにギリギリなんです。出来れば1分1秒でも早く送りたいんですよ。
そのときは、「1面の頭を空けとくぞ」って言われててですね、1秒も早く送らないといけないのに、「はやぶさ」がいなくなった後で、もう2分間シャッターを開け続けるというのは、本当にもう、写っているかどうかも分からないし、もう永遠に感じられる2分間でしたけど。
撮影開始から3分後、タイマーでセットしたシャッターがようやく下りました。
カメラの液晶で確認したら、もうバシッとななめに突っ切って写っているのが確認できたので、そのときはもう「よかった〜」。
「やったー」というよりも、「よかった〜」と思って。あと、端っこが切れていなかったので、一応計算して「このコップ座から南十字星まで入っていたら大丈夫だ」と思っていたんですが、これで端っこが切れていたら情けない写真じゃないですか。
それで端っこが切れていなかったので「はあ、よかった〜」と思って。
翌朝、朝日新聞の1面には、東山さんが撮影した写真が大きく掲載されました。
偶然にも雲が通り抜けた6月のオーストラリア。
おかげで 「はやぶさ」の最後の輝きの背景には満天の星空が広がりました。
もしかしたら、それは、数々の苦難を乗り越えて帰ってきた「はやぶさ」への、せめてもの労いだったのかもしれません。