今週は、ついに完成した東京駅丸の内駅舎の保存復原工事。
リニューアル・オープンした東京ステーション・ホテルの総支配人が語る、Hidden Story。
大正3年、1914年に開業した東京駅。
東京ステーション・ホテルも、その翌年から営業開始。
まさに駅とともに 時を刻んできました。
今回は、東京駅丸の内駅舎の保存復原のため、いったん休業。
5年に渡って工事が行われたのです。
「1914年の竣工時の姿に戻す」ということなんですが、残っていた、元々竣工した丸の内駅舎は戦災で、第二次世界大戦の戦災で焼かれて消失してしまったんです。上の部分が焼かれてしまったんです。私たちの記憶にある東京駅丸の内駅舎というのは、その残った部分だけを使っていたわけですが、その部分を修復、保存しながら、そして焼け落ちてしまった部分を100年前の姿に戻すという組み合わせのプロジェクトです。それを保存、復元と呼んでいるわけです。
洋風・赤煉瓦づくりの駅舎は、戦争により3階部分と、その上にあったドームが焼け落ちました。
その無くなった部分をおよそ100年前の姿に復元。2階から下は修復をする、というプロジェクト。
東京ステーション・ホテルの総支配人、藤崎斉さんはこう振り返ります。
保存、復元工事にあたって基本的な考え方は、残せる物はすべて残す。すべて保存する。使える物は未来に渡って使い続ける。ということが第一です。
新たに加えて復原された部分については、材料といいますか、部材などは現在の21世紀のものを使うわけですが、工法であったり、工事の方法ですね、工法というのは創建当時のものを踏襲して作り上げました。
今回、5年間の工事期間でのべ76万人の方がこのプロジェクトに関わったわけですが、やはり非常に困難を極めたのは「材料は調達できるけれども、工法が伝承されていなかった。100年前の工法を知っている職人さん、大工さんがいなかった」ということなんですね。
駅舎のシンボルでもあるドームについては、さらに難題がふりかかりました。
ドームは本当に圧巻ですね。
今回、これは完全に復元されたわけですけども、困難はですね、設計図が一枚も残っていなかった。残っていたのは、白黒の写真のみ。
駅のシンボルでもあるドームの部分。
復元しようにも、設計図は1枚も残っていませんでした。
残っていたのは、白黒の写真のみ。
そこからですね、すべてコンピュータ解析をしまして、寸法を割り出していく。
色もですね、コンピュータ解析をするわけですが、あとは残っていたのは、当時、この建築に携わった大工さんの日記だったんです。そこに「黄卵色、壁の色は黄卵色、卵の黄身、黄卵色である」と書いてあった。
それとコンピュータ解析を合わせてですね「この色で間違いないはずだ」ということで、あの黄色が決定されたわけです。
これも困難を極めましたね。
そして、地下には、最新の耐震装置が組み込まれましたが、実は、これまで、総重量7万トンの駅舎を支えていたのは……
この駅舎を支えていたのは、なんと、松の杭なんですね。
松の杭が地中に、約1万本……1万本以上、打ち込まれていまして、それが長きに渡ってこの駅舎を支えてきたんですね。その松が支えてきたというのもびっくりする話ですけども、今回、最新鋭の対震装置を入れるということで……松杭をいきなり抜いてしまいますと、当然建物が沈んでしまいますので、1回、仮受けの鉄骨を相当数、地下に打ち込みまして、いったんこの駅舎を仮支えしているんですね。支えておいて、松の杭を抜いていった。
その途中で耐震、免震装置が入っていったわけです。
東京駅丸の内駅舎。
そのほぼ半分の面積を占めるのが東京ステーション・ホテルです。
重要文化財の中にあるホテルというのは、日本でたった1つですので、今後、こういったホテルは、ホテル単体に限って言えば、たぶん二度とできないと思います。
どんなにお金を使おうと、こんなホテルはできないと思います。
すごく幸せです。この場面に立ち会えるのはすごく幸せです。他の新しいホテルに敵わないモノはいっぱいありますし、例えば、新しいホテルの客室は45平米とか大きなお部屋が標準になってきてるわけですね、そういったなかで、私たちは重要文化財であるために、構造躯体は決まっているです。変えられないんです。小さなお部屋もいっぱいあるんです。でも、私たちに大切なものは何なのか?ステーション・ホテルの意味は何なのか?
「スペックではなくて、ストーリー」
というのは常日頃スタッフには言っています。
そういったストーリーに満ちていますし、語っていかなくてはいけないし、使命だと思っていますね。
およそ100年前の姿がよみがえった東京駅。
その駅にあるホテルを利用する人々。
これから先、どんな歴史が刻まれていくのか?
赤レンガが人と人との出会いを見つめます。