今週は、2014FIFAワールドカップブラジルに初出場。ボスニア・ヘルツェゴビナのHidden Story。
その出場には、イビツァ・オシムさんが深く関わっていました。
今回、取材にお答えいただいたのは、ベストセラー「オシムの言葉」の著者、ジャーナリストの木村元彦さんです。
ワールドカップ初出場を決めたボスニア・ヘルツェゴビナですが、実は、ここに至るまでには、長く厳しい道のりがありました。
まずは、ボスニア・ヘルツェゴビナをめぐる 歴史的な背景を教えていただきました。
もともとユーゴスラビアという国を形成していた共和国のひとつなんですけど、サッカーファンなら馴染みの深いクロアチアという国だったり、セルビアという国だったりモンテネグロ、あとスロベニアもワールドカップに出ましたよね。
マケドニア、最近は独立宣言をしましたコソボ、といった共和国と同様にユーゴスラビアを構成していた国ではあるんですが、民族の名前を冠にしていないんですね、ここはほんとに3つの民族、セルビア人も、クロアチア人も、ボシャネク人と言われていたんですがムスリムの人たちも3つの民族で構成されていたんですが、言わば民族融和の国、ユーゴスラビアを象徴する国だったんですね。
それが、1992年から起こった内戦で国じゅうが互いの民族の殺し合いをさせられて、多くの人が難民として流出せざるを得なくなった、そういう国ですね。
1992年。
当時、ユーゴスラビアのサッカー代表チームを率いていたのがイビツァ・オシム監督でした。
今で言うユーロ、ヨーロッパ選手権の優勝候補として予選を勝ち抜いて、開催国であるスウェーデンへ乗り込む直前だったんですね。で、オシムはまさにそのスウェーデンに渡る直前、ちょうどサラエボ包囲戦というのが始まったわけですね。
これはユーゴスラビアから独立を宣言したボスニアに対して、それをとどめようとする勢力、ユーゴ人民軍とセルビア軍がサラエボを包囲して攻撃をしてきたわけです。
これに抗議する意味を込めて、オシムは直前になってユーゴスラビアサッカー協会で辞任の会見をするわけですね。
これは戦争に反対する抗議だったんですけど、「これは私がサラエボにできる唯一のことだ。みなさんは今サラエボで何が起きているかご存じのはずだ。思い出してほしいけれども私はサラエボの人間である」と筋を通すわけですね。
戦争に抗議して、ユーゴスラビアの代表監督を辞任したオシムさん。
それからおよそ10年後、来日し、Jリーグ、ジェフの監督、さらに、日本代表の監督に就任。
しかし、道半ば、脳梗塞のため、監督を退任します。
そんなオシムさん。ここ数年、故郷、ボスニア・ヘルツェゴビナのサッカーが抱えている問題を解決するために、力を尽くしてきました。
ボスニア・ヘルツェゴビナは、3つの民族がそれぞれにサッカー協会を持っていて、これを統一しなければ、FIFAから除名する、という通達を受けていたのです。
これを収拾するためにFIFAが指名したのがイビツァ・オシムだったわけです。
3つの会長をひとつにまとめる、ボスニアを統一しないとFIFAには戻れないということで、与えられた期間が2カ月なかったんですけど、病気で不自由になった体をおして、彼はそれぞれの民族の会長、で、ボスニアという国は政治が主導していますから政治家にも会いに行くわけですね。
セルビア人共和国の大統領であるドディック、これはセルビア人共和国の独立を訴えている極右の政治家です。
それから、チョービッチというクロアチアの極右政党のリーダー、それから、ムスリム側にそれぞれ行って、スポーツでひとつになることの優位性を説くわけですね。クロアチアのチョービッチが言っていたんですが、オシムが来たことによって、それぞれの政治家達が3民族の、「もうこの件は俺たちはノータッチにしよう」と、電話連絡を取り合ったようなんですよ。スポーツはスポーツだから政治の面で介入するのはやめようじゃないかと。
まさに、オシムさんの行動によって、ひとつの国に、3人のサッカー協会の会長がいる、という事態が解消。民族を超えて、代表チームを構成できることになりました。
ボスニア・ヘルツェゴビナは、2014 FIFAワールドカップブラジルヨーロッパ予選に臨みました。グループGの最終戦は、アウェイのリトアニア戦。勝てば、1位通過で出場が決定する試合。オシムさんもスタジアムに駆けつけました。苦しい展開の試合、エディン・ジェコの突破からイビシェビッチが決めて、これが決勝点となりました。
ジェコのお父さんミトハドさんとサラエボで知り合って、彼が言うには「エディンは本当に戦争の子なんだよ」と。
当時、彼がセレクションを受けて入団していた、ジェレズ二チャルというクラブ。
これはオシムさんの出身のクラブでもあるんですが、そこのグランド、グルヴァビッツァというグランドなんですが、そこがちょうどセルビア軍と防衛するムスリム軍の中間にあって、砲撃のターゲットとされていたんですね。とても危険でサッカーができないと。
そこでコーチたちが、このままではジェレズ二チャルの火が消えてしまうので、巡回コーチとして子どもたちが行っている学校へ行ってサッカーを教えるわけです。そういう中で成長していって、彼はチェコに行き、ドイツに行き、そして今年はプレミアを制するという、ものすごくハングリーなところから大きくなっていったわけです。
ボスニア・ヘルツェゴビナ、ワールドカップ初出場決定。
その瞬間、公の場で、感情を表に出すことの少ないオシムさんの目に光るものがありました。
それは、92年、ユーゴスラビア代表監督の辞任会見で見せた涙とは、全く違う意味での熱い涙でした。
本当に彼も言っていましたけど、今まで暗い話題しかなくて。戦争が終わったあとから。
「もう人生に良いことなんて何もないんじゃないか」と思っていたところに、サッカーがあって、それが大きな喜びをもたらして、希望をもたらして……根本的な国の解決にはならないかもしれないけれど、すごく生きていくモチベーションが高くなった。
「『何かできるんだ』ということを、自分たちの気持ちに、持ち合わす事が出来たんじゃないか」という事を言ってました。ぜひ、ブラジル大会は期待したいですね。
木村元彦さんは、最後に座右の銘として、こんな言葉を挙げてくれました。
「ジャーナリストの仕事は、世の中の陰に隠れるファインプレーを掘り起こして伝えることである」
ボスニア・ヘルツェゴビナ、ワールドカップ出場の裏にあった、イビツァ・オシムさんの知られざるファインプレー。
3つの民族がひとつのチームとなって、ブラジルのピッチに立つのです。
このストーリー。
より詳しくは、木村さんの著書、文春文庫から発売の「オシムの言葉増 補改訂版」に書かれています。