2017年03月07日
日本全国で感じる、学者としての葛藤と苦悩。
東京大学 東洋文化研究所の菅豊教授は、
研究対象によって、日本全国様々な場所をフィールドとしています。
「18歳の大学1年のころからは、
新潟県の山北町で鮭の研究をして、卒論を書いて、
修論は、千葉県・手賀沼の鴨猟をやりましたね。」
日本以外では、中国・浙江省で豚・鶏、
上海ではコオロギなどを研究されてきました。
もともと、菅先生は、新潟の中越地方に、
1998年ごろから関わりを持つようになります。
その後、2004年に中越地震が起きました。
震災後から、学者としての”葛藤”や“苦悩”を
著書『「新しい野の学問」の時代へ』に書き留めています。
「自分を出していくのは、研究者はしないんですよ。
これは、オートエスノグラフィー(auto-ethnography)という手法で、
自分を含み、一般的にいうと主観的な方法で、変わった方法です。」
著書の中でも、冒頭に記されてされている
”ある研究者”の言葉は、衝撃的なものです。
(以下、「新しい野の学問」の時代へ(岩波書店) より引用)
『“俺たちは学者のモルモットじゃない”と、語る人々の声もあります。
大学教授が さも当然のように被災地へ来て、フィールドワークと称し、
津波で全財産を失って先行き不透明な暮らしの中で、
仮設住宅で暮らす人々を呼びつけて、同情然として話を聴き歩く。
1つ2つの大学、教授、研究者ではありません。
被災地で立ち上げる、寄り添う意志のない方は、来るべきではありません。
研究者の”思いつき”が被災地の負担にさえなっています。
1日フィールドワークして、聞いた話を簡単に研究報告にまとめる作業は、
別のところでやってください。情けなさすぎます。』
これは、現在は学者で、東日本大震災当時、大学院生だったという
山内明美さんがブログに書いた言葉だそう。
ふるさとが被災地となり、ボランティアとして活動してた中、
目の当たりにしたのが、”情けなさすぎ”の光景だったそう。
今夜の選曲:MR PITIFUL / OTIS REDDING