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2025.04.27
「東京・異国飯ヒストリー」

4月27日の放送では、「東京・異国飯ヒストリー」をテーマにお届け!
新中野にある南米チリ料理のレストラン『カサ・デ・エドゥアルド』へ。
東京でチリの味を届けることになった、そのストーリーを伺ってきました。

***
小川)
店主のエドゥアルドさん、よろしくお願いします
エドさんってお呼びしていいですか?
エドさんはいつまでチリにいらっしゃったんですか。

エドさん)
1983年、27歳です。

小川)
どんな町だったんですか。

エドさん)
面白いところ色々あって、1973年クーデターもあったし、もう色々あって。
で、私が1983年日本に来た

小川)
エドさんは学生の時どんなふうに過ごしてたんですか。

エドさん)
インダストエンジニアリング。
その時、私の彼女のお父さんの会社が調子が悪くて、私がその時まだ仕事なかったので、彼の仕事なくならないために、私が代わりにやることにしてた。
そこが2、3ヶ月ぐらい。
で、ある日、家に戻って新聞開けたら、日本でテレコミュニケーションスエキスパートが探してるってあった。

小川)
新聞で、日本に行かないかっていう求人があった。

エドさん)
そうそう。で、私その時、日本のわかることが、ウルトラマンとトラ・トラ・トラ!の映画、あと、サムライドラマしかもうアイディアなかった。
で、それを見たら、私の彼女に日本に行きたいって。
で、彼女と一緒になって7年だったから、日本に来ました。

小川)
そうなんですね。いや、日本に来るきっかけがまさか新聞広告で、それで応募してきたっていうのがびっくりだったんですけど。
最初は通訳とかコーディネーターの仕事されてたんですよね?

エドさん)
結局、長い話を短くすると、3ヶ月で私クビだった

小川)
そうなんですね。最初、翻訳の仕事がクビになってしまって、でもすぐに帰るわけにはいかないっていうことで、ずっと日本で頑張ってきたと思うんですけど。
今、料理のお店をやってるわけじゃないですか。
もう最初のご仕事と全然違いますよね。

エドさん)
そのあと、私がコマーシャルやった時に、2日間で50万ぐらい貸してた。
テレビも出たし、もうすごく人気のコマーシャルで。
で、そのお金もらった時に、私が言葉の学校に払って、その時、私のガールフレンドを呼んで、日本でもう1回結婚して、それで、長野県にいました。
この時、私の翻訳の仕事も有名になった。
だから、長野に戻った時に、もう1回、最初の会社とコンタクトを取って、で、私の1番のお客さんになりました。

小川)
あ、じゃあ、もう翻訳の仕事も諦めずにチャレンジして、なんとか繋がったんですね。

エドさん)
そう、だから自分の会社作って、自分の翻訳会社、

小川)
自分の会社も作ったんですね。

エドさん)
そう、で、その会社の下、チリと日本の関係の商売とか、あと、プロモーションとか、サッカー、スポーツビジネスもやってた。
サッカープレイヤーの代理人もしましたし、翻訳がだんだん少なくなりまして、2011年の東北地震がありました。
それで、チリのメディアに電話して、東北のリポートすることになる。
で、チリのトップリポーターとカメラマンが、その時戦争にいました。
で、2人が向こうからエジプトに逃げて、エジプトから羽田に来て、私が彼らを仙台に連れて行った。

小川)
そっか、チリで日本の地震のことを伝えるために、もうエドさんが先頭に立って引き連れて行ったんですね。

エドさん)
私、レポーターたちのガイドみたいになって、福島プラントの前に行って、
写真撮ったりとか、ビデオ撮ったり、そこから、彼らがリポートをしました。
で、そこから、福島駅の前のホテル泊まって、水もない。
だから、その時初めて飲むための水で体洗った。

小川)
そっか、もう震災直後で、水もない中でレポート行かれて、

エドさん)
そのあと仙台に行って、次の日。仙台行ったら、空港も見て、あと港も見て、それで壊れてた。
だから、そのリポート2日間ぐらいやったら、今度、これで帰ると思ったら、チリからまた連絡あって、もっと北の方がもっと大変だと。
だから、私が警察に行って、南三陸に行きたいんですけどと言ったら、もう行けられない、全ての道も切れてる、津波で全て壊れてる。と言われました。
でも、彼ら戦争リポーターだから、どうしても行かないといけない。
で、私が彼らに言ってたね。もし向こう行ったらガソリン足りないよ。
戻れない。仙台に戻れない。
でも、行きましょう。
行って、そこでなんとかすると言って、行った。
で、1日リポートしてた。その時また軍隊もボランティアも入ってなかった。
皆止まってた。
そこで、ある人が船に食べ物を乗せてた。
だから、その人に助けた。
荷物を一緒に運んで。
で、そこから、彼と一緒にずっと1日いた。
彼の家がどこにあるとか色々話してくれた。
津波のことも話してくれて、友達になりました。
で、その夜、仙台に帰る時に、じゃあ私が今度また来ますよって言って、

小川)
じゃあ、レポートのためにチリのメディアと一緒に東北に入られて、そこで現地の方と繋がって、友達になって、また来るよって約束をされたんですね。

エドさん)
それで、私の友達、スペイン人のコルフェディアスっていう人。
彼がミュージシャンで、私がゴルフやってた。
東北のためにゴルフコンペを作って、お金は全て東北を助けるために。
で、120人ぐらい集まった。
それで、大体150万ぐらい作って、そのあと、結局、ボランティア30人と一緒に行くことになった。

小川)
30人はどこから連れて?

エドさん)
その時、ボリビア人のグループが、私たちも行きたい、コロンビアのグループも行きたいと。

小川)
日本にいる外国人の方々と繋がって、30人で東北にまたいったんですね。

エドさん)
30人の中で、多分日本人が30パーセント、その外国人が70パーセント。

小川)
それ、何月ぐらいですか。

エドさん)
4月。

小川)
じゃあ、まだ震災から1か月ぐらい。
ほんとに大変な状況ですよ

エドさん)
そう。そこで色々やった、踊ったり、皆がペルーの踊りとかで、料理作ったりとか、で、3日、4日間ぐらい行ってた。
それが1回目で、そこから戻って、結局7回行った。
すごい喜んでて、最後、私のスペイン人の友達に、皆がすごく喜んでるから、レストランやりましょうって言って、それでレストラン始まった。

小川)
じゃあ東北に行ったことをきっかけに、自分でお金も集めて、人も集めて、炊き出しをしたのがきっかけでこのレストランが始まったんですね。
レストランを始めることになって、でも、今までの仕事と全然違いますよね。
最初大変じゃなかったですか。

エドさん)
エンジニアだから。エンジニアなんでもできるはずだから。

小川)
すごいですね。その思いきりがすごいなって。

エドさん)
もちろん翻訳やれば例えば翻訳の1日の入るお金がレストランの2週間分とか。

小川)
金額もまた全然違いますけど、レストランやって楽しかったなとか、やりがいはありましたか

エドさん)
それもある。私、チリの文化大好き。
だから今ここでママの味を見せたい。
今だんだんチリの料理も変わってる。
コックさんが他の国の人で、だんだん他のものを入れてる。
または、グルメイトレストランで新しいコックさんが色々他の作り方を考える。
だから私が1番ベーシックの普通の家で食べるものを人を食べさせたい。

小川)
それ、なかなか日本で食べられないですよね。
ほんとの家庭料理というか。ちなみにそのチリの家庭料理ってどんな食材でどんな料理なんですか。

エドさん)
日本と同じチリが長い国だから、材料が全てある。
肉料理もある。いろいろ野菜もある。魚もある。貝もある。
だから、例えば私のおうちだったら、毎日違うものを食べてた。
魚の日、豚の日、で1番高いのが牛肉だから、牛肉が日曜日とかみんないる時。

小川)
それちょっと日本の感覚とも近いですね。なんか牛肉が家で出てくると、お、今日はちょっと豪華だなっていう感覚がありますけど。
ちょっと最後に、せっかくなので、エドさんが好きな言葉で締めたいなと思うんですけど、ありますか。

エドさん)
「Siempre hay un mañana. siempre sale sol」
意味が、「いつも明日がある。いつも太陽は来る」
だから、いつも1番苦しいの時でも、いつもなんとかなってます。
太陽が出てくる。だから、ネバーギブバップ。
頑張って頑張って頑張って。

小川)
色々やってきたエドさんが言うと説得力があるなって思います。
ありがとうございました。

ありがとうございました。

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