DIALOGUE RADIO -IN THE DARK-

日曜の深夜。全てのしがらみから離れて
本当に「独り」になっている特別な時間。
人は誰もが不安や悩みを持っているはず。
この番組は、自分の心と対話することの大切さを伝え、
明日への活力を求める人への応援メッセージを
発信するラジオ番組です。

EVERY SECOND SUNDAY

25:00-26:00 ON AIR

真っ暗闇の中で、心と対話する時間を。
志村 季世恵の写真

志村 季世恵

バースセラピスト

板井 麻衣子の写真

板井 麻衣子

J-WAVE NAVIGATOR

メッセージをいただいた方の中から毎月2名の方へ
ダイアログ関連本をプレゼント!

MESSAGE TO STUDIO

番組のオリジナルPodcast 配信中

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MESSAGE

人は他人と比較してしまう生き物だと思います。
人より、恵まれていると喜んだり、
人より、うまくいかないと落ち込んだり、
SNSが生まれたことで、自分を誰かと比較する機会も増えてきました。
そんな今だからこそ自分の心と対話する時間を大切にしたいと思います。
何をしたいのか、何が悩みなのか、何に希望を持つのか。
その積み重ねが幸せを感じる近道なのではないかと思います。
幸せは、自分の心の中にある。


2024.12.08
GUEST

第78回のゲストは、槌谷博之さんでした

1/12 第79回のゲストは、田頭真理子さん

 
〜プレゼント〜

番組初となる著書、
『暗闇ラジオ対話集-DIALOGUE RADIO IN THE DARK-』を
番組をお聴きの方の中から2名の方にプレゼントします。

ご希望の方は、この番組のサイトにある
「MESSAGE TO STUDIO」の欄から
番組の感想をお書き添えの上、ご応募ください。


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DIALOGUE

志村:槌谷さん、こんばんは。
槌谷:はい、こんばんは。
志村:暗闇の中へようこそ。
槌谷:はい。
志村:ちょっと緊張してますか?
槌谷:そうですね、もう真っ暗なんで、ちょっと緊張してます。
志村:ですよね。あのう、暗闇の中に今年の夏に来ていただいて、その時のこと覚えていらっしゃいますか?
槌谷:もちろん覚えてます。
志村:はい、その時ですね、実はダイアログ・イン・ザ・ダークでは、能登の震災のことをなにか応援したくて、それでご縁があって御陣乗太鼓さんとも出会ったんですよね。それで演奏をお願いしたんです。素晴らしい演奏で、今でも本当に昨日のことのように覚えているんですけれども、その演奏とともに槌谷さんとも何度か金沢にもお邪魔して、そしてお話もさせていただきまして今に至っている、そんな経緯ですよね。
槌谷:そうですね。
志村:あの時は何月だったんだろう?初めてお会いしたのは・・・
槌谷:5月・・・ですかね?
志村:そうですよね。
槌谷:4月か5月、結構早い時期ですよね。
志村:4月に実はお電話させていただいて、そして5月にお目にかかりました。その時はちょうどもう名舟町を後にして、被災されていて、金沢で避難なさってた時でしたよね。
槌谷:そうです、その時はちょうど金沢のカプセルホテルに一ヶ月半ほどいた時に、季世恵さんの方からどうしても会ってくれないかということで、金沢の方でお会いしましたね。
志村:そうなんです。あの演奏なさる皆さんが、どんな風な暮らしをなさっているんだろうって、ものすごく胸が痛かったんですけど、お会いすると颯爽とした感じで出ていらしてですね、何だろう?覇気があって、そして爽やかな槌谷さんと出会ったんです。でも本当はとても大変な状態でしたよね。
槌谷:そうですね、もうあの頃が一番、まあ正直言って未来も見えなかったですし、この先どうなるんだろう?輪島の方に本当に帰れるのかなっていう気持ちが段々大きくなった時でしたね。
志村:うーんそうでしたよね。確か被災されて、その後にまずはどうされたんでしたっけ?確か奥様のご実家で元旦をお迎えになったとおっしゃってましたよね?
槌谷:そうですね、1月1日に妻の実家の方で、妻方の親戚一同と、まあ正月ですから一緒にお酒とかおせちとか食べていて、そんな時に地震にあって、まあ家にもね、私の実家にも両親とかいましたからすぐ帰りたかったんだけど、もう全然道がダメで、で、能登っていうのはもう地震があった時には真っ先に海を見ろっていうぐらい津波が怖いんで、真っ先に走って海の方に行ったんですよ。そうするともう港に水が一滴も残ってない状況で、それでもう焦ってでっかい津波来ると思って、その街の高齢者とか背負って山の方へ登ったんですよね。
志村:はい、要するに波が引いた感じだったんですね。
槌谷:そうですね、でも実際は隆起して港に水がなかったんですけども、その時はもうそんなことなんか全然思わなかったから、津波が来て潮が引いたと思ってもうびっくりして。
志村:うーんそうでしたよね・・・何メートルくらい隆起したんでしたっけ?
槌谷:そうですね、そこの嫁のところは上大沢町っていう輪島市から20キロ離れたところなんですけれども、そこで3メートル以上はもう隆起してましたね。
志村:3メートルってすごいですよね、いきなり。
槌谷:もうびっくりしました。
志村:うーん・・・で、海も遠くなってしまったとおっしゃってましたよね。
槌谷:そうですね、まあ名舟で言えば1メーター、2メーター弱ぐらい隆起したんですけども、私の家っていうのは海の本当にすぐ近くにあって、夏はもう家で海パンになってそのまま海に飛び込むみたいな感じだったんですけど、もうそれが海岸線は150メートル以上向こうになってしまいましたね、隆起して。
志村:150メートル離れるってすごい力ですね。
槌谷:そうですね、もう一瞬でしたからね。一瞬であれだけもう隆起するってちょっと今でも信じられないんですけどね。
志村:そうですよね。そこでもう暮らしは成り立たないですものね。
槌谷:そうですねー、うーん。でもまあ金沢の方に結局6月半ばまで、半年以上避難してたんですけども、地元の名舟町にようやく水道が半年経って通ったっていうことで、みんなで名舟町の方に戻ったんですけどもね。
志村:うんうんうん。そんな中で御陣乗太鼓の保存会の皆さんは、どうやってまた集まられて、そして演奏がまた始まるというか、活動が始まるというのか、あったんですか?
槌谷:そうですね、地区ごと、名舟町含め南志見地区っていう地区ごと金沢の方に避難してたんで、避難している間もちろん練習もできないですし、太鼓もないですし、まあ悶々としてたっていうか、最初はですね、地震の後なんかはっきり言って本当に太鼓のことなんか頭の中になかったんですよ、両親が生きているか、親戚が生きているか、まずはそこばっかし頭が行ってたんで、でもまあ私たちの周りの親戚では怪我人とかはいなかったんで、それから徐々にちょっと気持ちが落ち着いてきて、御陣乗太鼓さあこれからどうしようか、こうなった状況からどうやっていこうかっていうことに気持ちが変わっていったんですけど。
志村:はい。
槌谷:うん。

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志村:でもね本当に命が助かってよかったです、皆さんの。
槌谷:そうですね、メンバーは本当に怪我した人も1人もいなくて、ただちょっと名舟町の人で3人が亡くなってしまったんですけども、はい。
志村:あーそうでしたか、うーん・・・。自然の脅威って本当にすごいですね・・・
槌谷:そうですね、もうどうにもならないですよね、あれだけのでかい地震が来ると。もうここ何年間かは地震慣れしてたんで。
志村:ああそっか、そうですね、続いてましたものね。
槌谷:そうなんです。
志村:本当は1月2日に式がありまして、打ち初め式ですか?
槌谷:打ち初め式ですね。
志村:打ち初め式ですね、はい、それをおやりになる予定がもうできなくって?
槌谷:そうですね、1月、もう本当にずっと昔から1月2日の日は名舟町の白山神社の中で打ち初め式っていって、メンバー全員、それと小中高校生含めてみんなで太鼓を打ち鳴らしてですね、その日に1年の太鼓の保存会の安全とかを祈願してたんですけども、その神社はですね地震でぺっちゃんこになってしまってですね、でどうしようかなー、でも何百年続いてるこの儀式ができない、この地震でできなくなるっていうのももう本当になんとかしなくちゃという気持ちで、白山市にある白山比咩神社の本宮の方にお願いしてですね、なんとか打ち初め式だけでもそちらの方でやってもらえないかってお願いしたら快く引き受けてくれて、そこでちょっと1月ではなく2月に入ってしまったんですけども、ようやく今年の打ち初め式ができたっていう、本当にそこは嬉しかったですね。
志村:本当ですね、白山の本宮ってすごく・・・なんでしょう、神聖な場だなっていうふうに私はいつもお参りすると思うんですけど、あの場は大切なとこですねー。
槌谷:そうですねー、本当に。
志村:そこで太鼓を皆さんで演奏なさったんですね。
槌谷:そうですね、まあちょっと自分でも考えられなかったんですけど、その本宮の中の神様に向かって御陣乗太鼓を叩けたんで、本当にありがたいかったですね。
志村:本当ですねー。そもそも御陣乗太鼓の歴史を伺ってもいいですか?
槌谷:はい、御陣乗太鼓というのはですね、今から天正4年ですか、今から450年ほど昔になるんですけども、越後の武将上杉謙信が能登で1番大きかった七尾城という城があったんですけども、そこに攻め入ってきたんですね。で、そこを攻め入ったあと私たちの村、名舟村にも攻めてきました。で、当時の名舟村の村人は、どうしたら上杉謙信から名舟村を守れるかということを考えたらしいんですけども、そこで村の知恵者の指示に従って、木の皮を剥いで目鼻をつけて、それを面として頭にやり、海の海藻を髪の毛として、夜陰に乗じて太鼓を打ち鳴らして寝静まった上杉謙信に攻めていったわけですね。
志村:すごいですね。
槌谷:それでもう上杉勢がびっくりして、恐れおののいて退散したと伝えられています。それがまあ神によるものとして毎年7月31日と8月1日には、名舟町の名舟大祭って言うんですけども、そのお祭りに、神様に奉納太鼓としていつも叩いています。
志村:ああそうですか、その名舟町の男性はみんな太鼓を叩く宿命にあるんだっていうふうにおっしゃってましたよね。
槌谷:そうですね、御陣乗太鼓っていうのは名舟町で生まれた男でしか叩けない、受け継いでいけないっていうのが昔からの決まりになってますので、まあ昔は名舟で生まれた長男しかダメだっていうあれだったんですけども、さすがにそれではメンバーがいないっていうことで、次男でも三男でもいいっていうことになって今現在まで続いているんですけど、まあ今もその後継者も私たちの時もそうだったんですけど、小学校1年生になると大人の人たちから御陣乗太鼓を習うんですよね。そこで小中高校生とずっと習っていくうちに、段々一人前の打ち手になるっていうか。
志村:すごいなー。お面を被って、そして独特な叩き方ですよね、1つの太鼓をお面を被った、その役があるわけですね・・・?
槌谷:そうですね、大体5種類、面の種類があるんですけども、それぞれに役柄っていうか意味があって、その面に応じて見栄を切るなりの格好とかですね、それもまた違ってきて、でもその見栄を切るやり方とかは誰にも教わらなく、あんせいこうせいっていう、そういうことは言われないんですよ。自分で考えてやるっていう。
志村:そうなんだ、いやもうすごいですよね、歌舞伎の世界みたいな。
槌谷:あはは〜そうですね。
志村:本当に感動したんですけど。
槌谷:そうですか、ありがとうございます(笑)
志村:実は私たちがどうして御陣乗太鼓のことを知ったかというと、震災があった時にダイアログとして何ができるかなって考えたんですね。自分たちがその場に行くことができない、東北と違って道に入れなかったんですよね。そうそれとお手伝いもできないし、何もできない無力さを感じていて、ずっとずっとYouTubeとかを見ながら探してたんです。どこでどんな風な活動をなさってたんだろうって、そうすると子供の頃にどこかで見たことあるような、太鼓を叩きながらお面を被って、まるでなまはげみたいなめちゃめちゃ怖い感じの当時記憶があったんですが、その方たちが秋田ではなくて、なまはげじゃなくて、あ、御陣乗太鼓の方々だったんだって知ったんですね。もう全然違った文化と伝統があるって大人になってから知ったんですけど、その方々が被災なさっていて、大変な状態でも演奏を続けていらっしゃることを知って、で、お会いして、どうしてもダイアログで元のお祭りができたらば、応援になるんじゃないだろうか?って勝手ながら思ったんですよね。でそれを忘れたくないって思ったんです。震災があった地域の方々が取り残されてしまって、自分たちだけその場にずっと居続けて向き合わなきゃいけないんでじゃなくて、日本中の人たちがそれを知り続けていくことが大事なんじゃないかなって思ってたんですね。今でもそうですけど。
槌谷:そうですね、やっぱし、うーん、私たちは被災者としてはもうこれは死ぬまで絶対忘れることのないことですけども、ちょっとね、能登半島から1歩離れると多分もう1年近く経っていて、皆さんの気持ちの中には能登半島地震を忘れていっている方がほとんどじゃないかと思うんですけどもね、でもそういう忘れていくみんなの記憶の中にですね、この御陣乗太鼓を私たちが叩くことによって、少しでも能登半島の地震のことを、まだ復興全然だぞっていうことを太鼓を叩いて伝えていければなとは思っていますね。
志村:本当ですね、本当にそう思います。それがこうリアリティがあるというか、文化を通してこんなに素晴らしい文化がある、石川の皆さんがそこにいるんだよってことを伝えていただきたかったですし、で、とても不思議なことがですね、御陣乗太鼓の太鼓の音を皆さんが聞いていて、涙をボロボロこぼされるんですよね。それが大変だっただろうっていう悲しみじゃなくて、感動して心が震える感じの、太鼓の音にもう揺るがされるような感じになるわけなんです、勇気をもらったみたいな。
槌谷:うん、そうですね、私たちの打ち手とすれば、そういうふうに思ってもらえるのが本当に嬉しいですし、それを目指してずっと小さい頃からやってきたんで、本当に今言われた、何ていうんですかね、心が触れるっていうんですかね、そういう気持ちになってくれて太鼓を見てくれるのが本当に私たちにとってはありがたいことですね。それを目指してましたから。
志村:ああそうか、なにかその当時は上杉勢のことを追い払う感じだったんでしょうけど、今になってみるともう全ての災いが追い払われていくんじゃないかというような太鼓の音だったんですよね。それは自分個人のものであったりとか、今の時代であったりとか、いろんなものが神聖な太鼓の音で除かれていくみたいな、そしてよし頑張るぞみたいな、そんな気持ちになるんですよ。
槌谷:うーん、うん、そうですね、私たちメンバーもですね、まあ普段当然普通に生活してるんですけども、でもひとたびやっぱり面を被るとですね、自分たちも気持ちも入るし、なんか違う人間になったっていうか、もう面被った瞬間からそういうスイッチが入るっていうか、そういう気持ちになって、やっぱり太鼓を打つ時も一心不乱に何にも考えなく、ただひたすら思いっきり叩くっていう、そういう感じになりますね。無になっているっていうか。
志村:そうかー。
槌谷:うーん。

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志村:相当長い時間叩き続けてますよね?
槌谷:そうですね。
志村:もう肩とか腕とか大丈夫なんだろうかと後からふと思うぐらい。
槌谷:それはいつも練習してるからあれなんですけども、最初に練習し始めた頃はもう手は血だらけでやっていて、それでも上の先輩たちはやめるなって言って、もう本当に血だらけでやってましたけどね。それがいつしかもう分厚い手になって、ゴツゴツの手になりましたけど。でもこの震災でそのゴツゴツの手が何ヶ月も太鼓してなかったんでまた柔らかくなってしまって。
志村:ああそうなんですねー、そうですよね。普段の御陣乗太鼓の演奏は、どんな風なことをなさってたんですか?どこでなさってるとか。
槌谷:そうですね、震災前は地元のホテルとかで毎晩365日叩いたりしてたんですけども、年間千公演ぐらいはしてたんですが、まあ地震によってその公演全て失われて本当にどうしようかなと思ってたんですけど、お陰様で3月に活動を再開してから全国から依頼が来まして、本当にありがとうございますって言いたいんですけども、うちのメンバーも地震でかなりいなくなってしまったんで、でもなんとか全国の皆さんの声に応えようかと思って、なるべく県外でもどこでも行って叩いて御陣乗太鼓は元気だぞ、能登半島はまだ元気だぞっていうのをアピールしたいですね。
志村:ああそっか、地元からまた違うところに拡散していらっしゃるんですよね。
槌谷:そうですね、東京もそうですけど名古屋、大阪、京都、長崎、東北の方にも行ったんですけど、先ほども言われたように面越しにお客さんを見ていて本当に涙を流して見られる方が結構いらして、やっぱり何て言うんですかね・・・じーんと来るものがありますよね、打ち手としても。
志村:そっか、お面越しにご覧になれているんですね。
槌谷:そうですね。
志村:そうか、よかったー、そう本当に涙涙なんですよ、途中から止まらなくなってくるんです、感動しすぎて。そうやってお互いの気持ちが通じ合ってたわけですね。
槌谷:そうですね、うーん。
志村:そっかー。そんな時に、また今度は雨の被害があったでしょう?あれはどうでしたか、大雨が本当にひどかったですけど・・・
槌谷:あれは正直な話、地震以上の被害がありましたし、怪我人はいなかったんですけど、まあ私と両親がその地区の仮設住宅に入ってるんですけど、もうこれはやばいってことで、仮設住宅の方に車では行けなかったので、国道が滝のように水流れてたんで、そこをなんとか歩いて行って仮設住宅まで行ったら、仮設住宅の横が川なんですよ、みるみる川が増水して、仮設住宅の基礎まで行って、それでみんな仮設住宅の人は高台の仮設住宅に手分けして避難したんですけど、そこも後ろが山なんですけど、バキバキバキバキっていう山が動く音がしてもう生きた心地がしなかったですね。
志村:本当ですねー・・・。そのあとはどうでしたか?
槌谷:雨が止んで街を見に行ったんですけど、川沿いの家っていう家はほぼ潰れてましたね、流されて、道もほとんどないですし、せっかく地震で国の方や県の方が復興に道とか作ってくれたのにそれもまた全て流されて、その時もまた水がくるのに1ヶ月以上かかりましたし、ちょっとあれは本当に生きた心地がしなかったですね、水が怖いです。
志村:そうですね、地震も水も本当に・・・
槌谷:怖いですね。
志村:どうしてここだけなんだろうって皆さん思うでしょうね・・・
槌谷:いやーやっぱ思いましたね、なんで能登ばっかりって気持ちがあって、まあ自然のことですから仕方ないんですけど、クヨクヨしていても始まらないしそこはみんなで明るく何とか乗り切っていこうとは思っていますけどもね。
志村:うん、本当ですね。
槌谷:能登の地区は結構祭りで成り立っているというかそういう文化があって、本当にたくさんの祭りがあるんですよ。普通は盆と正月に実家に帰るっていうが当たり前だと思うんですけど、能登の人たちは盆と正月は帰らなくても祭りには帰るっていう人がほとんどで、祭りに参加して太鼓を叩くなり笛を吹くなり、キリコっていう出し物があるんですけど、それを担いで汗だくになって、気持ちよくまた仕事に戻っていくっていう、なんかそういう文化があるんで、今地震の後にほとんどその祭りができないんですよね。宮もほとんど潰れてるでしょうし、お祭りの道具もほとんど残ってませんし、でも何とか祭りが続けられるようになっていけば能登のみんなの気持ちの復興もできると思うんで、建物とかは後回しでも人間の気持ちだけでも早く元通りになりたいですね。
志村:本当にそう思います、本当に。で、復興を待つだけじゃなくて、お気持ちも整えていらして、そして日本中に槌谷さんみたいにこの文化を届けていただけたらいいなって思います。
槌谷:本当に今も全国の方から励ましとか応援の言葉が届くので、それに応えられるように私たちももっともっと頑張って太鼓を打っていきたいですね。
志村:ねー。お祭りとかって神聖なものじゃないですか、そして明るいもので、なにか色んなものを取り払ってもらえるような、そういうものが今の日本にはとっても大切なんだろうなって思うんですよね。そこからまたなにかを生み出していくとか、能登の皆さんはそういうお力をお持ちなんだろうなって私は信じてるんです。槌谷さんをずっと拝見していてそう思いました。
槌谷:こういう地震とか水害とかありましたけどね、こんなぐらいじゃ負けないぞっていう気持ちで今生きてますんで。
志村:よかったー、これから日本だってそこら中で起きるかもしれない要素はたくさんあるじゃないですか、そんな時でもこうやってやっていくといいんだよってことを示してくださってるんだろうなって思うと、これは日本中の人が他人事にしちゃいけないなって思うんですよね。来年はどんな年にしたいですか?
槌谷:来年は、1番いいのは震災前の能登半島に戻りたいですね。のどかな。能登って何もないところですよ。海と山しかない、本当に何にもないんですけど、その何にもないところが私は好きなんですよね。

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槌谷:その海と山がほとんど、海は隆起して形が変わって、山も土砂崩れで元の形も残ってないような状況で、なんかそこに関しては風景が変わったんで本当に寂しいんですけど、でもね、人間の魂だけは震災前の気持ちのまままた戻っていければいいなと思っていますね。
志村:本当ですね。そうだ、人の心がありますものね。
槌谷:うん、まあでも能登の人は強いですよ。粘り強いっていうか、負けませんよこんなことには。
志村:はー、よかった、本当によかったです。
槌谷:はい。
志村:うん。あのね、このラジオを聞いてくださってる方たくさんいらっしゃるんですけど、今こんな夜中ですね、いろんなお気持ちで聞いてくださってると思うんです。で、なにか一言槌谷さんからメッセージいただきたいんですね。明日の朝元気でいられるような、そんな言葉をいただけたら嬉しいんですけど。
槌谷:そうですねー、明日の朝元気でいられる・・・そうですね、私今震災にあった人間としてはですね、明日の朝目が覚めて、窓から見る風景がいつもの風景だったらそれだけで今の自分は元気が出るような気がしますね。変わらない日常っていうのはそれが1番いいことだと思うんで、うん、そのいつもの景色を見て「おはよう、行ってくる、頑張る」っていう一言があるといいと思いますけどね、あんまり上手く言えないですけど(笑)
志村:ありがとうございます。本当に本当にそうだと思います。
槌谷:はい。
志村:明日の朝、日常があるって大事なことですね。
槌谷:そうですね、ありきたりですけど、普通の感じで毎日あれば、それだけで今の自分、私とすればもうなんか幸せっていう感じがしますけどね。あの地震の時の一瞬にして正月が絶望に変わった時のあの気持ちを考えると・・・そうですね。
志村:大切なことを私に、私たちに教えてくださって本当にありがとうございます。
槌谷:あーいえいえ(笑)
志村:私も明日の朝窓を開けたら心から感謝したいと思います。そして今でもありがとうございます、能登から来てくださって。
槌谷:いえいえ。
志村:よかった、暗闇でお話しできて。また遊びにいらしてください。
槌谷:はい、どうもありがとうございます、またぜひとも遊びに来たいと思います。
志村:ありがとうございました。
槌谷:はい。



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