今週、注目するのは、世界遺産、石見銀山で知られる島根県大田市大森町にある【石見銀山生活文化研究所】。【群言堂】というブランドでファッションアイテムを販売。そのほか飲食業やスキンケアブランド、さらに暮らしをテーマにした宿も運営されるなどライフスタイルについて提案をし続けてきた会社です。実は、J-WAVEとおなじく今年が30周年。創業者の松場登美さんにお話をうかがいました。
【石見銀山生活文化研究所】は取材にお答えいただいた松場登美さんと松場大吉さんのご夫婦が始めた会社です。まずは島根の小さな町で会社を立ち上げたきっかけを教えていただきました。
「夫の郷里が石見銀山、大森町だったんです。夫はそこに結婚当時から『いつか帰る。』と言っていましたから、長女の入学を機に帰ってきました。それが37年前の1981年のことです。何をやろうという事業計画があったわけじゃないんですが、帰ってくる前からここに対しての夢と希望に満ちあふれていたというか、ここに帰ってくれば何かできると思っていたようです。ここに来る前にいた名古屋でしていた、内職の仕事でためた端切れで作ったパッチワークのような小物を、ワゴンで駅のコンコースとかで行商して歩き始めたのが最初のスタートです。」
その後、【群言堂】漢字で、群れの言葉の堂と書いて【群言堂】が生まれることになります。
「ひとつの空間からこの発想が生まれたんです。それは、この地元にある一番質素で一番粗末な家だったんですけど、友達が集まってお酒を飲むだけのために改装したんです。文明を排除して、ろうそくのあかりでいろりを囲んでお酒を飲む、というスペースにしました。そしたら、そのときインターンで来ていた中国の学生が、『中国には【群言堂】という言葉がある』と教えてくれたんです。群れの言葉の堂と書くんですが、相反する言葉が『一言堂』といって権力者が上からものを決めていく。逆に『群言堂』は字のごとく、群れになってみんながわいわい好きなことを言いながらいい流れを作るということ。それは素晴らしい言葉だということで、ひとつの世界観がそこから生まれ始めました。」
1988年、群言堂の服づくりが始まりました。
「私はいわゆるファッションという業界に疑問を持っております。今や大量生産大量消費で安価なものがたくさん市場に出るようになりましたけど、それは貧困な国の人権や環境を犠牲にして成り立ったものではないだろうか?安価に手に入れることによってたやすくものを捨ててしまう、それが社会にどう影響するんだろうか?ということを考えていたんです。自分は着たい服が手に入らない地域にいたので、そうじゃない服を作りたいと思ったんですが、今考えるとただ服が作りたかったわけではなくて、暮らし方をデザインしたかったんだと思います。海外生産が圧倒的に多いこの国ですが、私たちは国内の消えゆく技術というか、産地と手を結びながら日本のいい素材で作る。例えば、滋賀県の麻であるとか、新潟の木綿であるとか、そういう昔ながらの産地を歩いて素材を探しています。新潟にマンガン絣という昭和の初期に開発されたものがあって、絣といっても昔ながらの絣とはちょっと違うんですけど、一社しか残ってないんです。しかも、職人さんもたったひとりしか残っていないと聞きまして、この味のある素材を何とか残したいと思い、もう20数年、毎シーズン採用させていただいているんです。」
島根県の大田市、大森町にある【石見銀山生活文化研究所】。こちらは、ファッションを扱うブランド【群言堂】のほか、宿も運営されています。
「私は、服をデザインするだけでなくライフスタイルをデザインしたいと思っていたんです。古民家再生という点でいえば、私はこの町内だけで10軒の古民家を再生したんですが、ただ古民家を再生するだけでなく、暮らしを再生しないと意味がない。私はもうちょっとで70歳になりますが、その年代の人がいなくなると日本の大事なライフスタイルが消えてしまうんじゃないかという、危機にあると思うんです。つまり、これは大げさにいえば社会の再生につながるんじゃないかと。この名前ですが、懐かしい、実家に帰るような、家族に迎えられたような宿にしたい。もうひとつのふるさとのように感じてほしい、ということから【他郷阿部家】にしました。
ここでは毎晩、二十歳の県外から来た子が山に芝を拾いにいって薪割りをして、かまどでご飯を炊いておむすびを作ってくれます。お食事は大きなテーブルをときには私やスタッフも一緒に囲んで、家族のようにお迎えしてお話をしながら楽しみます。」
阿部さんの古民家を再生した宿は、もうひとつのふるさと・故郷、という意味で、【他郷阿部家】。一日三組の旅人たちが、松葉さんといっしょに食卓を囲みます。
「毎晩、筋書きのないドラマと言いますか、たった三組のお客様なので一緒に食卓を囲んでいるといろんな話で盛り上がります。それは、ここにいながらにして、時代の風を感じられるというか、そんな感じがするんです。人件費がかかると利益はほとんどないどころか借金をしてまで、と思ったこともありましたが、この宿がなければ、人生が違っていたかもしれないと思うほど、幸せな人生を招いてくれる宿になりましたね。人の出会いこそが人生の財産だなとつくづく思います。」
最後にうかがいました。松場登美さんが島根から発信したいのは、どんなメッセージなのでしょうか?
「次の世代にいいものを残していきたいです。私が生まれてから今日までの日本は、経済発展を求め過ぎたのではないかという気がするんです。ここへきて非効率な世界に魅力を感じて、私はよく"ヒューマンスケール"という言葉を使うんですが、身の丈にあった暮らしというのは、こういうことじゃないかと思います。石見銀山は世界遺産になりました。当初、島根県は銀経済の時代に世界の3分の1を産出したと言われていたんですけど、その当時は評価が低くかったんです。だから、世界遺産として認められたのは、鉱山遺跡と自然との共生、その文化的景観というのはこの古い町並を含んでいます。それは大変皮肉なことながら、鉱山としては近代化に乗り遅れた、また町並としては経済発展しなかった、その結果、この美しい町並が残ったんですね。発展が悪いわけではありませんが、ではどういう発展の仕方が理想なのか、私はこの町から発信できそうな気がするんです。」
【石見銀山生活文化研究所】 ウェブサイト