今回はELLEGARDEN、16年ぶりとなるアルバム『The End of Yesterday』のHidden Story。

20230210h01.jpg

語っていただくのは、ELLEGARDENのギター・ボーカル、細美武士さん。そして、ギター・生形真一さんです。2008年に活動休止、2018年再始動。再始動後はライヴを中心に活動をしていたELLEGARDEN。アルバムを作ろうと決めたのは、どんなことがきっかけだったのでしょうか?

20230210h02.jpg

『細美:2021年の正月明けかな。正月ぐらいに俺んちにメンバーで集まって飲んでたんですよね。で、結構 深い時間まで飲んでて、俺と高橋が結構酒飲むんで、ドラムの高橋と俺が割とお酒入って、酒入るとすごい熱くなるんですよ。元々熱いんですけど、なんかあんまりそれを日頃、表には出さないんですが、お酒飲むと本音がこうガバッと出てきちゃうんです。なんかその場でせっかくエルレでこうやって再始動できたんだったら、いつまでもその昔の曲をやって、過去の栄光にすがって生きるみたいに見えちゃうのも嫌だし、自分たちがそこにちょっとこう甘えるのもなんかどうかと思うから、『大勝負をしないか』っていう話を提案して。もうそれこそ、『人生全のせで勝負をして、のるか、そるかで のったらその先も未来はあるだろうし、こけたらそこで終わり、ってぐらいの大勝負をかけたいと俺は思ってんだけど、どう思う』

っていう話をみんなにしたのが最初ですね。それが、だから、今から言うとちょうど2年前ぐらいですね。』

その後、どんな風に曲づくりが始まったのでしょうか?

『その16年ぶりのエルレのアルバムを作るのに、一体どれくらいの時間がかかるのか読めなかったんで、とにかくなるべく前倒しで作業に取りかかろうと思ってMONOEYESのツアー中から曲を書き始めて、40曲ぐらい作ったんですよ、2021年の間に。そしたら、めっちゃ迷子になっちゃって。休止中ってエルレガーデンが止まってて、エルレガーデンっていう時計が止まってるわけじゃないですか。

で、俺たちのガキの頃に地元の連れで始めたすごい楽しく遊んでたバンドが、急速にこうなんかいろんな波に飲み込まれて1回ぶっ壊れたみたいな、そんなバンドって、やっぱり俺ん中ではすごい大事なおもちゃを10年間箱に綺麗にしまっておいたやつを引っ張り出して、埃をかぶった箱の上の埃を取って開けてっていう作業で、その時間が止まってた間にやってた何かの中から生み出せなかったですよね。

MONOEYESのツアーをやりながらエルレの曲を書くっていうのは不可能なんだなっていうことに気がついて。で、どうしよう、どうしようって悩んだ結果、2022年の頭に、時系列でつがってないところに行こうと思って、ロサンゼルスに行きました、作曲しに。

日本にいる間にスタジオ探さなきゃいけなかったから、住むところと、あと、 24時間365日、爆音で音が出せるスタジオを見つけないといけなかったんですよね。俺は声めちゃくちゃでかいんすよ。

だから、防音じゃないとこではできないんですよね。最初はサンフランシスコに行こうと思ってたんですけど、サンフランシスコで見つからなくて、最初に見つかったスタジオがロスだったんです。

で、作曲始めましたね。ただ、やっぱ防音じゃなくて、その周りに住居がないところの建物を全部スタジオとしてミュージシャンに貸し出してるだけだから、俺の部屋の隣の部屋はヒップホップクルーだったんですよ。

サブーウーハー入れた爆音の低音トラックが流れると、俺のパソコンが物理的にガタガタガタガタガタって揺れるような音で曲が流れるんすよ(笑)。これは知らないぞっていう。ほんとに狭い、窓も何もない、周りにはアメリカのいろんなミュージシャンがいるところに1人で行って、ここで3ヶ月曲を書くのか、って思った時の、、、期待2割、不安8割。

でも、多分挑戦って、そういうステートオブマインドだと思うんすよ。不安8割、期待が2割で未来への希望っていうか、 絶対に何か形にしてやるっていう、その野心だけは10あってみたいな。その完全なる挑戦のメンタリティーになれたこと、というのがすごく、まず、俺には嬉しかったっていうのかな。

もう、初日にここに飛んできたのは正解だったなって思いましたね。でも、すごく危険な地域なんですよ。スタジオって、やっぱりどうしても周りに住居がないところだから、 だから、朝4時ぐらいまで作曲して、朝4時とかに家帰ろうと思ってスタジオ出ると、ものすごい低速で走ってる車とかいるんですよ、時速10キロとかで。で、そーっと近づいてきたりして、でも、なんかこう慌てたりしたら余計鴨に見えちゃうかなと思って、すごく落ち着いて、自分の車まで歩いたりとかしてました。』

このようにして始まったロサンゼルスでのソングライティング。アルバムの1曲目、「Mountain Top」のHidden Story。

20230210h04.jpg

細美:途中でスタジオ借り替えたんですよ。さすがにヒップホップクルーの爆音に耐えられなくなって、もうちょっと制作環境がいいスタジオ、すごい探したの。

で、そこはもうなんていうのかな。ほんとに、ヒットメーカーのプロデューサーの部屋があったりとか、 あとは映画音楽を作ってるやつがいたりとか、とにかく音楽で食ってる人たちがいるスタジオで。で、パティオが真ん中にあって、俺ももう1週間ぐらい曲できなくて、 きついなと思いながらトイレ行こうと思って自分の部屋出たら、そのパティオに隣の部屋で映画音楽を作ってるやつがパートナーと一緒にご飯食べてて。

俺の暗い顔見て「どうしたんだ」って話になって。「もう2週間曲ができなくて、もうほんとに限界だ」っていう話をしたら、その横でヨガをやってた、ちょっとスピリチュアルなことも経験と知識が豊富な方がいて、 「アーティストウェイっていう本があるので、それを読んでみるのいいわよ」って言ってくれたんです。

そのアーティストウェイを要約しちゃうと、クリエイターが自分の中の泉が枯れた時に、どうやって、それをリフィルするかっていうメソッドが書いてある本で、やることが2個あるんですよ。

1個はモーニングページズって言って、朝起きたらトイレは行くじゃないすか。でも、その次に何かやる前に3ページだけ、毎日頭の中にあるものをとにかく言葉にして書いていく。

で、それを毎朝やって、スタジオ行って、最初10分間瞑想して。で、もう1個は、1週間に1回アーティストデートっていう日を設けなさい、と。自分の中のアーティストとデートをしなさい。ずっとやりたかったけど、なぜかやらなかったこととか、ほんとにやりたいんだけど、ちょっと怖いなと思ってやらなかったことに取り組まなきゃいけない、週に1回必ず。

そういえば、トレッキングトレイルがあるな、と。そこはまあ、結構過酷なトレイルで1時間半ぐらいかけて上まで上って降りてきて、埃まみれになって、疲れてた状態で作ったら、その2週間かけなかったのが突然曲が生まれて、マウンテントップって曲になった。』

アメリカ滞在3ヶ月で細美さんが書いた曲は、120曲。1日1曲、できれば2曲。最終日だけは3曲 書いたそうです。

そんな制作の日々のなか、日本で待つメンバーに途中経過の報告はあったのでしょうか?生形真一さんはこう語ります。

『生形:途中経過は、、4人のグループラインがあったんすよ。今もあるんだけど、グループラインがあって、そこで常にやり取りをしてて、細美さんがロス行ってる間も 週に1回、どんなになくても、10日に1回はやりとりをしてて、細美さんが「今こんな感じだよ。

だから、とりあえず何曲か良さそうなのできたから、とりあえず来週にはちゃんと整理して1曲送るね」っていうのを3か月やってて、、、1曲も来なかったんです(笑)。もうでも途中でわかって、丸2ヶ月ぐらい経ったあたりで、あ、これもしかしたら1曲も来ないなと(笑)。

細美:でも、その間メンバーは曲が来たらすぐアレンジ取り掛かんなきゃいけない。だからスケジュールも入れられないし旅行に行ったりもできないし、3ヶ月待ってたっていう。

生形:でもまあそれがバンドっすからね。細美さんが帰ってきて、成田空港迎え行ったんすよ、3人で。そん時に細美さんが最初に言った言葉が、「俺はみんなと一緒に作ってたよ。3ヶ月間、お前ら3人と4人で曲を作ったよ」って言ってて、その意味が曲を聴いた時にすごくわかったかなと思いました。』

ちなみに、生形さんは、「細美さんがロスで書いた120曲を、書かれた順にすべて聞き、 細美さんが何を考えて作曲したのか、その音から感じ取った」ともおっしゃっていました。

そして、レコーディングのため、今度はバンド全員でロサンゼルスへ。ミュージシャンのスコット・マーフィーさんだけがサポート役で同行。他のスタッフは、ひとりも 同行しませんでした。

『細美:スタッフ同行せずっていうか、もうお金がなくなっちゃった(笑)。いや、これはもうEMIの名誉のために言うけど、彼らは莫大な予算を用意してくれたんだよ、それを無計画に使ってたらなくなっちゃって(笑)。

結局だから、ロスにレコーディング行った時は、ワンオクのTakaの家に居候させてもらってたんですよ。全員 共同生活、後輩の家に転がり込んで、レコーディングするっていう感じでした。狙ってやったわけじゃないんだけど、あの状況って、頼れるのがメンバーしかいないんすよ。ま、元々俺たちすごい仲いいんだけど、ものすごく仲良くなる。

生形:だってレコーディング終わった後、そのみんなでリビングっていうか、ま、キッチンのテーブル必ずそこに全員で座って、「あー、今日どうだったね」って、酒飲む人は飲んで、で、「あ、ちょっと眠いわ」って人は寝て、あんな生活を俺、40代後半になってするなんて思わなかったから、なんか、青春時代を思い出しましたね。

細美:うん、なんかやっぱりね、すごく大事なことですね、その仲間で作るっていうのは。』

アルバム・タイトル『The End of Yesterday』は、ラストに収録されたナンバー「Goodbye Los Angels」の歌詞からとられたタイトル、ということですが、、、

『俺にとってはもう奇跡なんですよね。これほんとに120曲目にできたんですよ。翌日もpcr検査の予約がロスのダウンタウンで入ってて、その翌日フライトだったんで、もうスタジオばらさなきゃいけなかった日で、 今日もう1曲できなきゃ3ヶ月間でアルバム完成しなかったなってなっちゃうって日だったんすよ。

最終日に、最後の日だけ3曲作ったじゃないですか、その3個目にできたんすよ。もう俺ロスから帰りたくなさすぎて、そういう旅だったんで、こう絶対帰ってくるからなってロスの街に話しかけるような気分で、ロスから離れた俺がメンバーと一緒にもう1回ロスに帰ってくるときに、あの昨日の終わりにまた帰ってくるぞって気分で、その時はこの曲作ったんですけど、これをいざアルバムのタイトルにしようとした時に、 休止してたELLEGARDENの昨日の終わりに帰りましょう。で、止まってた時計を動かして、おもちゃ箱の中のおもちゃたちを綺麗にまた動くようにして、そこでもう1回遊びましょう。っていう、なんか、こうぐるっと回ったタイトルがついたんで、これもみんなに20個ぐらいタイトルの候補見せて、どれがいい?って聞いておきながら、俺ん中でも絶対これだって最初から思ってたやつですね。』

細美武士さんに 最後にうかがいました。細美さんが「大勝負」だと思ってのぞんだアルバム制作。いま、振り返って、どんなことを感じているのでしょうか?

20230210h03.jpg

『細美:やっぱり40代の後半とかって、完全にもう若者から脱却して、なんなら、その人生の後半戦に入っていくあたりで、だからといって、自分は老人だとは思えないし、難しいんですよね。どうすりゃいいんだ、俺は。自分のことどう捉えりゃいいんだ、みたいなのがわかんない中で、いずれにせよ、ダラダラと終わってくのだけは嫌だ、っていうのはあって、なんか大きい勝負をかけて、勝つか負けるかはっきりさせたいなっていうか、その大勝負がないまま、このまま自分の人生閉じていったら、きっとものすごい後悔するだろうなっていう気分はあったんで。

だから、ELLEGARDENのこのレコード作れたのもほんとにいいタイミングだったし、まあ、そういうこと自分で言うんじゃねーよって他の人が言ってたらきっと思うんだけど、このレコードに関しては、断言できるけどね。もう、俺の人生で作ったアルバムで1番いいアルバムだし、その勝負をやれたのはほんとに良かったです。』

ELLEGARDENウェブサイト